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樋口泰人さん×森岡龍さんトークショー『アメリカン・スリープオーバー』(OPEN THEATER vol.3)

『アメリカン・スリープオーバー』上映会レポート

2014年3月、Gucchi’sFreeSchoolは東京藝術大学映画専攻と共催で、日本未公開青春映画『アメリカン・スリープオーバー』の上映会を開催しました。3日間の上映では連日定員を超える大勢の方々にお越しいただき、素晴らしい未公開作品を皆様にお届けすることができました。

このページでは、当上映会で各日映画上映後に行われた豪華ゲストによるトークショーを、全3回に分けてお送りします。

第2回のゲストは映画評論家の樋口泰人さんと、俳優・映画監督の森岡龍さんをお招きしてのトークショーです。森岡さんは上映当日、同時上映した『ニュータウンの青春』の監督です。日本とアメリカのインディーズ映画の在り様という観点から考えていく
樋口さんと、そのインディーズ映画の作り手でもある森岡さんのトークは、両作品の姿を少しずつ浮き上がらせていきます。さてどのようなトークだったのでしょうか?
 
 
司会は東京藝術大学大学院映像研究科の石田晃人さんです。

2日目写真(客席)
 
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石田晃人(以下、石田と表記)
本日はありがとうございます。まず簡単に『アメリカン・スリープオーバー』を見た直後ということで、森岡さんの方から『アメリカン・スリープオーバー』の感想をいただき、そのあと樋口さんに『ニュータウンの青春』と『アメリカン・スリープオーバー』の感想をいただけたらと思います。

森岡龍(以下、森岡と表記)
森岡です。よろしくお願いします。そうっすね。ちょっと緊張してます(笑)。でも感想は難しいんですよね。色んな感情にさせてくれる映画だったから、この映画はこうだっていう感想はないんですけど、ただ最後のパレードで一夜を介してこれから新学期に向けて始まる色んな人の視線が飛び交うじゃないですか? これが本当にもしかしたらひょんなことで違った新学期を迎えただろうな、みたいな、こうじゃない人間関係がもしかしたらあったんじゃないか、みたいなそういうところが凄い魅力的でした。
特に好きだったのはキス出来そうなのに、自分からやめるじゃないですか。そこが凄くいいなと思った。憧れの女の子をやっと捜し出せたのに手に書かれた電話番号を見て「なんだビッチかよ」みたいな、で「もうちょっといいです」みたいな、自分でそういうことを選択して、結果違う女の子とキスして、そういう繰り返しで最後にパレードに繋がる感じが良かった。だから見るたびに違う可能性があるような感じがして、何回見ても面白いっていうか、何言ってるかわからなくなってきたんですけど(笑)。

石田
マギーも最後プールで止まってキスするのをやめるっていうのもあるし。

森岡
そうそう。もう今日はこれでお腹いっぱいなんだみたいな。ああいうところが凄く好きでした。
 
 
【「予感」と「可能性」】
 
 
石田
そうですね。先ほど話されていたようなことをパンフレットで山崎まどかさんは「予感」という言葉で書いています。この映画は何か始まりそうなところで終わる、これからまた違うことが始まるかもしれないし、今まで色んなこともあったし、ということで、思春期の固まっていないような人たちを描いて、そういう予感みたいなものに溢れている映画だと書かれています。

森岡
なるほどね。色んな予感が本当に飛び交っている。そういう魅力がありましたね。あともうみんないい顔してたな。マーカスっていう、みなさん(パンフレットは)手元にあるのかな? あのロブの友達。マーカスがロブを見つめる視線とかすげぇ好きだったっすねぇ。なんかロブよりマーカスは気後れしている感じとか。ベスの方がマギーより気後れしている感じとか。

石田
体ちっちゃいですしね。

森岡
なんかそれぞれみんな愛おしかったな。普通の感想になっちゃったね(笑)。

石田
いえいえ、全然(笑)。さっき言いそびれてしまったんですけど、今日『ニュータウンの青春』と『アメリカン・スリープオーバー』を併映させていただく経緯としまして、樋口さんにこの上映会の相談に行った時のいきさつがあります。樋口さんに『アメリカン・スリープオーバー』を最初見ていただいたとき「いわゆる日本のインディーズ映画とかだと、今ここで撮らなくてはいけないというような切迫感みたいなものがあるんだけど、『アメリカン・スリープオーバー』はそういうのが薄いのが面白かった。」という感想をお聞きして、それで日本のインディーズと併映したら対比が出来て面白いんじゃないかなあ、と思い、なおかつ青春映画だということで『ニュータウンの青春』を併映させていただきました。
『ニュータウンの青春』にも果たしてそういう切迫感というは、あるのか、ないのかということも含めて、樋口さんに『ニュータウンの青春』と『アメリカン・スリープオーバー』のご感想をいただければと思います。

樋口泰人(以下、樋口と表記)
どうもこんばんは、樋口です。『アメリカン・スリープオーバー』最初に見たときに、今「予感」っていう話が出て来たんですけど、俺もう50歳すぎてますので、彼らの歳とはもう大分離れているわけです。そうすると「予感」っていうのが、もう次々に自分の人生の色んなこととシンクロして、もう道が見えてくる、というか彼らの先にある道が、一本ではない道が次々に見えてきて、彼らは次になにを選択するのだろう、というような状態で映画を見るという。
なんていうんでしょう、彼らの視線の中から向こうに広がる未来を見るのではなくて、ちょっと上から目線というか大人な目線で彼らを見ると、逆に自分の人生の出来なかったことを全部、この映画に指摘されているようで、上から目線だったものがいきなりダメな人のダメな今の自分というのを突きつけられて、非常に困惑しました。そこが凄く面白かったんですけれども、だからなんかこの映画がどうのこうのっていうよりも、自分が生きているという中で、自分が今ここにいる、ということが別に大したことではないのだ、ということがよくわかるというか、それでもそれは十分大切な人生なのだとか、そういうことを教えてもらったっていう感じですね。
だから違う自分がここにいても、それはそれでOKである。なんて言ったらいいんだろう。なにを例に出したらいいかな? 廣瀬純という変な思想家がいまして、映画のことや哲学のことを普段書いているんですが、料理のことも書いていまして。『美味しい料理の哲学』(河出書房新社)っていう本の中で、鶏肉というのがまず世の中にはあって、鶏肉は鶏肉としてあるだけだったら鶏肉に過ぎないのだけれども、そこに串を刺すとそれが焼き鳥になるのだ、っていうようなことを書いているんですね。
だから今の話でいうと可能性っていうのは、例えば、色んな人生、色んな人たちの人生全てがここら辺にこう、転がっている。そこに一本の映画っていうカメラの視線をスッと刺した時に、それぞれの人生が出来上がる。俺らは普通は串を刺した、串を見るんだけど、串を見てそれが焼き鳥である、という。その焼き鳥が面白いか、つまらないか、というのを見るんだけど、この映画はそうじゃなくて、串を刺した鶏肉までをも見せてくれる。鶏肉の他の可能性。焼き鳥にならなかった肉の可能性というか。もしかしたらカレーに入っていたかも知れないし、他の鶏肉料理。鍋に入っていたかも知れないし、そういう他の料理の可能性も見せてくれて、例えば、焼き鳥として生きてきた自分の人生の他の可能性を自分はどう引き受けるのか。というようなことを考えさせてもらったという感じです。
で、その最初に感想をなんて俺が言ったって言ったんだっけ?

石田
今、ここをこうでなければいけないとか、今ここでこの場所で撮らなければいけない、この時代で今こそ撮らなきゃこの映画を、みたいな切迫感がないのが、面白い、という。

樋口
それっておそらく言い方を変えると、串を上手く刺さなきゃいけない、とか串を人に目立つように、焼き鳥を取ってもらえるように、自分が取るんじゃなくて、そこを歩いている人たちがこの焼き鳥が美味しそうだって思って、この焼き鳥を拾い上げてくれるような形で串を刺さなくてはいけない。というような映画ではないということだと思う。
さっきも言ったように、刺した串からこぼれ落ちた鶏肉を見せてくれる映画なので、そこが面白いんだけど、こぼれ落ちた肉を売ることは普通は出来ないじゃないですか。今の世の中では、焼き鳥は焼き鳥として売らないと誰も買ってくれないし、こぼれ落ちた肉が美味しいですよって言っても、そうは誰も買ってくれないわけなので、この映画をどうやって売るのかっていう質問をしたような気がしますね。

石田
そうですね。「どうするの?」って聞かれて、今でもよくわからないんですが、とりあえず今回は色んな青春映画を併映して、『アメリカン・スリープオーバー』の持つ異質性みたいなものをあぶりだそう、ということをやってみました。
 
 
【曖昧な「時代」と「場所」】
 
 
樋口
それで『ニュータウンの青春』が別の青春映画としてカップリングされたわけなんですけども。観てみたら、案外「ああ、似てるじゃん」って。どうでしたか? 皆さん。2本続けて観て。俺が似てるなって思ったのは、一番大きなのが、「時代がよく分からない」ことです。だって、『ニュータウンの青春』の主人公の顔と髪型って、今ここに誰もいないですよね。あの人に似てる顔と髪型してる人は。
俺、70年代が中学・高校なんですけども、その頃には割とよくいた顔なんですよ(笑)。記憶の中でではね。そこら辺が曖昧ではあるんですけども。だから、ものすごい昔の青春映画を観ている様な気もするんですけど、でも明らかに今の風景だし。
『アメリカン・スリープオーバー』には携帯とか一切出てこなかったので、多分ある時代を想定してたのか時代を見せないようにしてたか意図的なことだったとは思うんですけども、『ニュータウンの青春』の場合は携帯も出てくるし、風景も今だし、逆に今の風景や今の風俗が出てくるだけに余計に時代感覚が混乱する。いつの時代のものを観ているのかっていうものが、ものすごくよく分からなくなったっていう。
そういう意味で、さっきの鶏肉の話に戻すと、串が刺してあるにもかかわらず、どんどん焼き鳥の輪郭が曖昧になっていく感じっていうところはものすごくよく似ていて。これが今アメリカでも日本でも全然、監督同士が友達であるとか、関係があるってことは全くないまま作られていて似てしまうっていうのはすごく面白く思いました。で、あと何だっけ? さっき何て言ったんだっけ? 俺。「“何か”も曖昧だよね」っていう話をしたんですが……。

石田
「“場所”も曖昧だ」、という……。

樋口
あ、そうか。あれは現実にそういう場所なんですよね?

森岡
現実に浦安で撮影をしました。

樋口
森岡さんはあそこで育ったりしたんですか?

森岡
そうです。

樋口
風景の対比……昔の町の風景とニュータウンのビルの街、というかビルの中で暮らしてる人々という、橋を介しての風景の対比っていうのが、どこの場所か分からないように見えるっていうか。何て言ったらいいんですかね。浦安だとか千葉であるっていうのは言葉では語られてはいるんですけども。そこに彼らが土着的に生きているっていうような、地に足がついた感じが全く無い。そこがすごく面白かったんですよ。
先月の末、大阪の西成区という、関西の方はご存じだと思うのですが、日雇い労働者の方が多く暮らしたり、彼らのための飲食街があったり、あとは遊郭があったりというような地域で、知り合いがその街を使ったイベントをやってたんで、ちょっと行ってきたんです。通天閣がある新世界と、山王地区っていう昔からそこに暮らしてる人たちの街があって、1本通りを挟むと遊郭街がある。で、新世界の向こう側は、釜ヶ崎の日雇い労働者の街がある。アーケードとかを歩くと、もうアーケードと言いながらもいつ天井が落ちてきてもおかしくないような所で、飯食うとカレー100円とか、「ああすごいな」とか思いながら見てたんです。その隣に、最近話題になった阿部野の近鉄のビルが出来ていて、そこが大阪の今年の一番の売りっていうか。「あべのハルカス」って呼ばれてるらしいんですけど。そういう大阪の今を象徴する場所があって、そこのすぐ隣に大阪の闇を象徴するような場所がある。そこの対比で見ると、大阪の西成区の風景は、風景を見ただけでヤバいものがそこにある感じなんですよ。
『ニュータウンの青春』にも、幽霊のスナックが出てましたけども、西成の場合スナックとしてじゃなくて、もうそこら中にいるっていうような街だったんですけども。そういうものすごい歴史っていうか、日本が抱えている暗い闇の部分があって、それを打ち消すような新しい街が隣にあるっていう。この映画にもそういう重い感じが、あるはずなのに無い。だから(『ニュータウンの青春』の)主人公の先輩のラーメン屋さんが無くなっちゃった時も広い店構え……店構えというかもう廃虚みたいになっちゃっている。
西成区に行くとそういう所がゴロゴロしてるので、「あ、同じだな」と思って観ていたんです。ただ、彼らがそこにいたってことはよく分かるけど、それが抱えている大きな闇はそれだけで見えるっていうものではなくて、逆に見えないことによって、「ここももしかして埋め立て地だったんじゃないか」という土地が無い感じ……何にも無いところに無理やり土を埋めて土地を作ってしまった感じがすごく出ていて、そこが面白かったんですよ。
そこが『アメリカン・スリープオーバー』の妙な季節感の無さというか、8月9月あたりなんだろうけど暑そうでもないし、プールで気持ちよさそうでもないしみたいな、妙な色んな物が混じった上で「どこにでもないかもしれないような町」という感じがなんか似ていて、共通点ばかりを見てしまいました。
あとはまあ、キャラクターの感じは全然違うな、と。『ニュータウンの青春』の方は、もうあの3人がいないと成立しない映画であるというのは思ったんですけど、『アメリカン・スリープオーバー』は肉の塊ではないですが、これから焼き鳥になる人たちの集団があれこれ出ているという。だからそういう意味では、あれだけ『アメリカン・スリープオーバー』に人がいっぱい出ているけど、最終的にはこれは1人の話なんじゃないかっていうか。これからこの大勢の人たちが1人の人になるのだ、という。色んな可能性が見えるけど、実は全部1人の人が吸い込んで、ようやく1人という「個」になるのだ、と。
可能性っていうのは外に広がるだけじゃなくて、何か固まっていく可能性。それが全体であり1つのものであるというような。そんな1つになっていく可能性として見える映画である、という意味ではちょっと確かに違うなと思いました。

石田
今お話に出た「場所」だったり「時代」っていうのは、『ニュータウンの青春』だとナレーションでは「浦安」と強く出してるんですけど、言われてみるとそういう風に「よく分からない場所」として見えなくもない。森岡さんは今樋口さんの感想をお聞きになっていかがでしょう? 場所に関してはどんな風に撮ってましたか?

樋口
埋め立て地と橋というのがすごくポイントだったんじゃないですか?

森岡
そうですね。撮っている時に、実は浦安じゃなくてもいいというか、「今ここでこの場所で」ということではなくて、「自分たちは映画を作るんだ」、「フィクションを作るんだ」ということだと思っていたから、要するに下町とニュータウンを見事に繋いでいる橋があればいいというか。実際は浦安の人たちが使っている橋とかも複数あって、バイパスが通っているんですよ。川じゃなくて。
そういう本当の現実世界のリアリティよりは、画的に成立しているものを選択していたから、その土地感、土着性みたいなものが薄くなっていったのかもしれない。だからそれは意図してそうなってたのかな。
で、時代性に関しても、極力その時代がいつだと分からないようにしたというか、まあ普遍的なものを作りたいと思ったわけです。普遍的なものを作りたいと思って、そこには何かその時の時事とか、その時の時代性みたいなものはあまり必要ないんじゃないかなと思って。そこに彼らがいて、そういう時間を過ごして、仲間が別れるという物語だから、街で撮ってるんだけどちょっとセットみたいな感覚で撮っていたような感覚はあった。浦安って街自体も結構無機質な街、ニュータウンなんで土着っていうよりは生活感のない街並みなんです。
例えば浦安は洗濯物とか干せないんだよね。風が強くて。だから生活っぽいものがどんどん街の景色から無くなっていってるというか、そもそもない街で、だから土着感がないのかなと思ったり。
ただ、迷ったのはディズニーランドを描くかどうか。ディズニーランドは浦安の人からすれば一個の象徴なんですけど、まぁ権利が面倒くさそうだなとかいろいろありつつも、浦安の子どもたちって8時になるとディズニーランドの花火で分かるんですよね。花火が上がるから8時だ、じゃああいつの塾が終わるから誘いに行こうみたいな。それってすごい土着っていうか、その土地でしか分かんないことだと思う。
そういう話もすごい面白いと思ったんだけど、何かあえてそういうものを外していったんだよね。なぜか分からないんだけど。そう、普遍的なものにしようと思ったんだよね。だから富永公園もほんとはタムロしているところがセブンイレブンの前だったり、あんまりそういう固有の何かっていうものを撮るってことを避けてたね。

石田
撮影地自体はよく知っている場所を使ったんですか。

森岡
よく知っている場所です。

石田
よく知っているけど、他の人に分かっちゃうということは避けているみたいな感じなんですか?

森岡
というか、ほんとに普段遊んでいるところを撮ろうとしたら画にならなかったんだよね。その画にならなさがある種のリアルでもあるんだけど、もっと映画として面白いものを目指そうという感覚で撮っていた。

樋口
森岡さん自体はどっち側で暮らしていたんですか?

森岡
ニュータウン側です。

樋口
その時は富永公園みたいな遊びはしてなかったの?

森岡
してなかったですね。ただ、あの映画を作り始める一番最初のきっかけが、富永公園ではないんですけど、例えば、鈴木君が誰かに告白してフラれたベンチだったら鈴木ベンチみたいな、自分たちの思い出の名前がついている。

樋口
友達の中での話?

森岡
友達の中での話です。もちろん単なるベンチなんですけどそれが同じエピソードを共有している人の間では鈴木ベンチになるし、それは富永公園も一緒でほんとは日の出第二北公園という公園があるんですけど、そこが富永公園と呼ばれていたりとか。自分たちの持ってる名前が失われる瞬間というか。

樋口
鈴木ベンチや富永公園って言った瞬間、公園やベンチが別のものになるっていう点では、さっき俺が言った串を刺すっていう行為そのものですよね。だから富永公園っていうのを作った瞬間この映画が出来たっていうような気はしているんですよ。

森岡
まさにそうですね。富永公園というものを作って、それにまつわる話をする。つまり富永公園が富永公園じゃなくなるまでの話というか、それを掴んだ瞬間に映画になるなっていう感覚があったのを覚えています。
 
 
【キャラクター】
 
 
石田
『ニュータウンの青春』と『アメリカン・スリープオーバー』では似ているところはあるけれどキャラクターが違う、『ニュータウンの青春』だとあの3人組じゃないと成立しないというか、あの3人を見たいし見せたい映画だと思うのですが、『アメリカン・スリープオーバー』は最終的に全てのキャラクターが一人の人間になるような映画なのではないかという話が先ほど樋口さんから出ました。
あれほど強烈な個性をもった俳優さんを使って強烈なキャラクターが出てくる映画を撮った森岡さんから見て、『アメリカン・スリープオーバー』のちょっと希薄な子どもたちっていうのはどういうふうに映りましたか?

森岡
役者たちがどうだったかってことですか? 誰でもいいというか、それぞれ強烈な個性はあると思うんだけど、こいつじゃなくてもいいっていうのがすごい面白かった。

樋口
誰のことが好きなのかほんと分からない。

石田
子供たちもわかってないかもしれないです。先週のトークで山崎さんはこの映画で出てくる15、6歳の子たちは娯楽とかがないからよくキスするし、何かしらもやもやしているとおっしゃっていました。恋がしたいだったりキスしてみたいだったり、そういう時期の子どもたちの話であると。

樋口
ロブは誰と仲良くなるんですかね?

石田
追い求めていた金髪女を諦めたのかもしれない。

樋口
例えば、明確には語られないですけど、さっきも視線の話がでたマーカスの目つきとかベスの視線とかを見ていると完全にホモセクシャルな匂いもプンプン漂うわけじゃないですか。だからそういう意味ではほんとにどうにでもなり得るというか。

森岡
マーカスがホモになる可能性もある。

樋口
ロブだってそうなる可能性もある。そういう意味ではすごいドキドキしましたけどね。最終的にどっちに行くのか。彼らは気が付いているんですかね。マーカスがロブをこんな目で見ていることにロブは気づいているんですかね。

石田
ロブは気づいていないと思います。

樋口
これどういう風にしてマーカスやベスの視線を撮ったのかっていうのを監督にも聞いてみたいですけど、ロブやマギーに聞きたいですね。いるのかいないのか分からないロブやマギーに「どう思います?」って。でも映画作る時に監督としてこう見てもらいたいっていうのと、映画に登場する作ったキャラクターが監督の意に反して違う思いを抱くという微妙なところって言うのはどういう風に処理していますか?

森岡
僕はこういう風に見てもらいたいというのはあんまりないので、むしろあの後また3人つるんでいるよねとか、どうなったんだろうねとかそういうことを想像してってもらえるのはありがたいというか、純粋にうれしいですね。

樋口
例えば、『ニュータウンの青春』で最後に先輩がもう一度出てきて生き霊だったのかもなっていうセリフはあるけれども、ほんとにどうだったかは分からないですよね。それは分からないように見てもらおうとしていたのですか? 俺、DVD借りて見たので、「あれこれどっちだったんだろう」ってもう一遍見直したんだけど、これよく分かんないやって思って。

森岡
何かロマンチックだと思ってやったんですよね。

樋口
シナリオの時点では?

森岡
シナリオにも書いてありました。生き霊を見るというかそういう噂だけが独り歩きして伝説になっているみたいな。シャレっていうか。

樋口
嘘いっぱいついていた人こそが、実は虚像だったということですね。

森岡
そうですねぇ、あそこに関しても俺あんまり考えていないのかな。単純に面白いかなと思ってたんですよ。あれだけ個性的な人たちがみんないなくなっちゃうのは寂しいというか、飯田先輩がいなくなっちゃうのは寂しいから、最後にロマンを残して終わったほうがいいかなと。

樋口
『ゼロ・グラビティ』のジョージ・クルーニーみたいですね。

森岡
ウォッカか何かを飲ませてくれる(笑)。

樋口
俺はジョージ・クルーニーの方が生きている説なんです(笑)。サンドラ・ブロックの方が幽霊である説を実は採っている。だから『ゼロ・グラビティ』と一緒に上映すればいいんじゃない(笑)?

石田
なかなか付いていける人がいないかもしれないですけど(笑)。

樋口
それで人が生きているってことはどういうことかって話をすると面白いんじゃないですかね。例えばそういうお題で振られたときには森岡さんどうします?

森岡
超むずかしいですね、何この大喜利(笑)。人が生きているのか死んでいるのか分からないってことですよね。

樋口
『ゼロ・グラビティ』と『ニュータウンの青春』を同時上映されて、それでひと言挨拶しろと言われた時に(笑)。

森岡
とりあえず眼鏡を外しましょうってことから始めますよね(笑)。
でも、映画って、細かい演出に関してはいっぱいあるんだけど、大きい演出の話で言うと、ぶっちゃけちゃうと、“この前観たとき右に動いてた人が、次に観たとき左に動いてるかもしれない”というのが正しい演出だと思っているんです、どっかで。それが映画の面白さであるというか。
そういう意味では『ゼロ・グラビティ』も『ニュータウンの青春』も一緒だと思うんですよね。上映が始まったら、もしかしたらこの人はこういう風に動かないかもしれないみたいな。なんて言うのかな…………わかるでしょ?(笑)。

石田
わかります (笑)。

森岡
だからなんか、そういうものを目指したい。常に上映される瞬間にフレッシュで、また生きなおすっていうか。だからまあ亡霊とかも映画自体と似てるっていうか、まぼろしっていうか。なんかそういうことなのかな……。

樋口
今話聞きながら突然思いついたんだけど、この映画と『ゼロ・グラビティ』を比べた時に、ジョージ・クルーニーは宇宙服を絶対脱がなくて、幽霊となって顔だけ出すことで存在証明したけど、『ニュータウンの青春』の先輩は逆に服全部脱いで顔を隠すことで存在を顕わにした、っていう。そういうつながりを今ちょっと……単に思いつきですみません(笑)。
それが軸になるんじゃないかっていう。ハリウッドは顔だけで勝負するけど、日本映画は顔を隠すことでこれから勝負する、っていうようなことで、いけないですかね?(笑)

森岡
(笑)。じゃあちょっと次回そういう企画を…………。

石田
どうですかね、もうわからなくなってきましたけど(笑)。

樋口
すみません(笑)。話をもとに戻しましょう。
 
 
【一つの顔の中にある可能性】
 
 
石田
顔の話でいくと、『アメリカン・スリープオーバー』はわりときっちり顔を撮るなっていう映画で、存在自体希薄なんですけど、それぞれの人物がある瞬間ある瞬間いい顔してる時に必ずその顔を撮る、という印象がありました。僕は陸上の女の子(クラウディア)の最後彼氏のところに行って、「走りたいわ」みたいなことを言う時の顔が一番好きなんですけど。

森岡
あそこいい顔してるよね。

石田
で、森岡さんの『ニュータウンの青春』も三人組の男の子たちの顔はすごくいいなっていうのがあって。顔を撮るときってどう撮るんですかね? いい顔を撮るのって……。

森岡
(石田に近づいて)こう撮るんじゃない? わかんないよ!(笑)。 顔撮るとき?

樋口
近づこうとします?

森岡
あー、近づこうとします。近づこうとします。

樋口
あのね、ペドロ・コスタっているじゃないですか? ポルトガルの監督で。この前の映画『何も変えてはならない』。あれ日本でも撮影してるんだよね。『何も変えてはならない』って、ジャンヌ・バリバールが歌のレッスンを受けるところを延々と映してるんだけど、バリバールさんは日本でライブをしたんだよね。
で、それを観に行ったんだけど、ここでこうやって(目の前に)マイクがあって歌っている。で、カメラをここ(マイクの前)に置くのよ。それ撮影するためのライブではあるけど、お客さんが入ってる。だからこうやってお客さんがいるところでここ(お客さんとの間)にカメラがあって、ここにペドロ・コスタがいるのよ。だから俺らはジャンヌ・バリバールを見るっていうよりも撮影しているペドロ・コスタの後ろ姿ずっと見ているみたいな(笑)。あ、こんなに近づきたいんだ、顔を撮ることでなにかしたいんだろうなっていうのを、すごく印象づけられたんですけれども。さっきも言った、(『ニュータウンの青春』の)主人公の70年代の若者みたいな顔はわりと近いところで。

森岡
そうですね。だから意外と『ニュータウンの青春』は女の子の顔を撮れてないのかもしれない。でもそれは単純に関係性の問題もあるような気がしていて。やっぱりそこまで入り込めないというか。
あの『ニュータウンの青春』の3人は普段から仲良い友達なので……。映画じゃなくても写真とかで“スゲーいい写真だな”って思うのって、やっぱり被写体とカメラマンの距離がスゲーいいなっていう写真だったりするじゃない? それがやっぱり映画においてクロースアップを撮ることにも結構近い気がするんだよね、俺は。
だからペドロ・コスタは相当な信頼関係ないとその距離感で撮れないはすで。あ、そういう意味ではこの(『アメリカン・スリープオーバー』の)監督は役者との距離感が滅茶苦茶上手いというか、結構カメラすごい近いところで撮ってると思うのよ、クロースアップを。それでいて振る舞いは新鮮というか。なんというか、(役者が)自然らしく振舞うことができてるから、すごいよね。

樋口
人数多いのにね。

石田
そう、それぞれの顔が、ちゃんと近くで撮ってるなっていう感じはしますね。

樋口
なんかほら、(『アメリカン・スリープオーバー』の)パンフレットにも50年代から延々と続く青春映画がいっぱい挙げられているんだけど、単純にこの『アメリカン・スリープオーバー』や『ニュータウンの青春』の場合は、出ている人たちが所謂職業俳優として自立している人たちではなく、自分のもっと親密な、身近な人たちが出演している。その意味で、明らかにここ(パンフレットの青春映画年表)にあげられた青春映画の数々とは違っていますよね。
商品って言ったら変なんだけど、出来上がりも想定された上での、どうやって売るかも決まったなかで作られてそれでも面白い映画だったと思うんですけど、『アメリカン・スリープオーバー』や『ニュータウンの青春』はもうそういうものからもこぼれ落ちた状態で、もっと身近なものを撮るっていう視線から始まっている映画だと思うんですよね。そういう意味で顔が新鮮であり親密であるというか。馴染み深いけど、でもどこか違うところに、気が付くと、安心できない顔って言ったら変なんですけど、ものすごい親密で近いところにあるのに、“10秒後はもしかすると消えてるかもしれない”というような、そういう波乱を含んだ顔が映っている。
そこがものすごく面白いし、これから映画を作るのは、もうみんなかつてのようないい状態で作れるわけでは全くないので、そういう時に、では自分はなにをするかっていうことにおいて、ものすごく近いところから始めるけれども、それが消えてしまうことがあり得るのだっていう可能性のなかで、消えていくものも消えたものも見つめて映画を撮るっていう姿勢が求められるし、既にそんな映画が作られ始めている。そんな気がしますね。で、それがたぶん今映画を撮るっていうことの意味だったり、面白さだったり、逆にかつてのここにあげられたような映画ではできなかったことなので、ものすごい強みではないかっていう風なことは思いました。

森岡
なるほど……すごい、なんて言うのかな、勇気づけられるというか、本当にハッとしたんだよね、今。やっぱり映画を作るのって結構大変じゃないですか。で、まあみんな今映画作ってるし、じゃあどういう映画を作ろうか、とか次どうしようかってなった時に、『ニュータウンの青春』もそうだったんですけど、この顔が撮りたいとかっていうことから始めちゃおう、みたいな。でも、それにしても映画を観過ぎたというか。みんな今もう映画をいくらでも観れるから、かつての映画のようにやりたいなっていう、そういう思惑もやっぱりあったりして。
だから『ニュータウンの青春』って結構物語は定型というか、方便なんだよね、映画を作る上での。なんかその上であの3人を立たせて映画を作っていくということが、若干の罪悪感はありながらも、それはなんというのかな、大したこと言えてないな、みたいな。今生きてることに対して、俺はこういうメッセージだ、みたいな。
それがないからこそ、さっき言ってた今ここでしかない切迫感みたいなことにつながるのかもしれないけど。ぶっちゃけそこまでないっていうか、そこにすごい罪悪感もあったりして。まあ色々世の中で起きてるのに、映画を作るってことが“ごっこ”ていうか、(そういうものに)なっちゃってないかみたいな。でもそれが悪いことじゃないような気がしたね、今話を聞いていて。その友人の顔を撮るということにしたって、やっぱ顔のなかに物語自体が潜んでると思ってるんだよね。『ニュータウンの青春』も大枠の物語は定型だけど、例えば島村のあの主演の男の顔じゃなかったらポケットにエビフライ入れられないと思うんですよ(笑)。

樋口
あのシーンよかったね(笑)。

森岡
なんかそういうことが成立できる顔っていうか。で、警報機(防犯ブザー)が鳴ってテンパって砂場に埋めるのも、ゴウイチの顔だから成立する。その身体が持ってる物語っていうか、なんかそういうことから始めてもいいんだね……いいんだな。うん、なんかすごい勇気づけられましたね、今。

樋口
でも、本当になにか、ねぇ、最初にも言ったけど、大した事しなくても良いんだと思うんですよ。で、何が大した事かなんてもう100年後にはわかったことじゃないので。あの、たぶんその自分が出来なかった事や自分が見落とした可能性みたいなのを見ていけば、それが結果的なにかになるんではないかみたいな、そんな気がしました。今日の二本を見て。

【質疑応答】

男性A
森岡さんにお尋ねしたいんですけれども、ニュータウンの青春っていうのは森岡さんが多摩美術大学の卒業制作で作られたと思うんですけれども、ぴあフィルムフェスティバルで、賞をとられて、でその賞を取ると、劇場公開をする長編作品を作る権利を得られるコンペに参加するという立場になられると思うんですけど、その後の状況っていうのはどうなったでしょうか。

森岡
あー、するどい質問ですね。まぁ、これは本当に恥ずかしい話というか、あんま言いたくないんですけど、言います。まぁ、参加しまして、スカラシップ権に挑戦して、まぁ、挑戦したんですけど、自分で辞退しちゃったんですよね。
まぁ、理由は結構いろいろ複雑なんですけど、要するに自分が足りなかったというか、二年も前の話ですけど。って言う風に言ってますけど、結局さっき言ってた友人の顔を撮るみたいな身近なところから映画をつくりはじめていった自分が、ある種商業映画っていう、もうちょっと標準を大きいところに合わせていくっていう普通に当たり前のように困惑して、落とし穴に陥ってしまって、でまぁ、辞退したっていう状況です。だからPFFのスカラシップ権は今僕は持っていない状態ですね。

男性A
あの今日もらったパンフによりますと、『アメリカン・スリープオーバー』は3万ドルの制作資金だったという風に書かれているんですけれども、ニュータウンの青春をみて、森岡さんの実力からすると、別にぴあのツテを頼らなくてもなんらかの方法で、劇場公開するような長編作品をつくる実力はあるような印象を受けたんですけども……。

森岡
僕そう思ってるんですよ。僕もそう思ってるんですけど、まぁ、ニュータウンの青春もその予算で言いますと1万5千ドルなんですよ。で、ぴあのスカラシップも……、やばいな、まぁ悪口じゃないですよ? ぴあのスカラシップ自体も予算的には6万ドルぐらいに落ちてきてまして、まぁ、たしかにここでやらなくてもいいんじゃないかみたいなとこもたしかにちょっとあったのかもしれない。
ただ、商業デビューというか商業作品をつくることがゴールではないじゃないですか、普通に。自己満足みたいな映画の作り方ももちろん違うとは思うんですけど。まぁ、良いプロデューサーがいれば、全然大きい映画というか、やりたいとは思っています。

男性B
ちょっと細かい事で恐縮なんですけど、2人がバイクを二人乗りして海老フライをもっていくシーンで、バイクがカーブ、曲がっていくときにガッてすって、「あぶねぇ!」みたいなとこがあるじゃないですか。あそことか、ゴウイチが先輩2人になにか投げつけたときに傘が壊れて、「傘壊れたよ!」とか。ああいうとこはどのくらいまで監督の狙いがあるものなのか。あと会話に関してもどの程度アドリブとか、どの程度コントロールされていたのかなと気になったんですけど。

森岡
まぁラッキーですよ。単純に。傘がこわれたことも、バイクがガタンってなった事もラッキーで。全然意図はしてないんですけど。まぁ、そういう可能性みたいなことは何が起きてもそういう面白い方向に転がるような、可能性だけは閉じないでおこうという演出、狙い……。具体的にこういう風に転んでとかっていう事を言った事は一度もないんです。
まぁ、なにか面白い事が起きる……、だから可能性をね、秘めすぎてるんですよ、あの三人(笑)。なんかね、常に面白い事が起きるから、とりあえずカメラ回しておけば面白い事が起きちゃう三人ではあったんですよ。だからまぁ、そういうことは、極力活かそうとか、ゴウイチが台詞を噛むじゃないですか。ああいうのもいいなと思って。
でも台詞回しとか喋る内容とかに関しては一応本で全部書いてはいるんですけど。そこからなんか、こぼれたアクシデントは意図してないけど落とさぬようみたいな感じですね。

男性B
じゃあ、あのマンションの部屋に入って洋服をこう、1つずつ出してこれはありだよな、あ、それありなんだ、みたいな会話はもう全部シナリオ通りで?

森岡
はい、あれはシナリオに。

男性C
以前渋谷で『ニュータウンの青春』を見たときに、森岡さんの師匠にあたる柳下毅一郎さんから森岡さんの映画がジャージ映画だと揶揄されているのを聞いて、自分のまぁ、半径の狭い中でこう物語が完結しているというようなニュアンスの事だったと思うんですけれども、あれから時間が少し経っていて、森岡さんの中で次に作る作品であるとかそういうものに対しての姿勢であるとか、そういうのは変わったのかなというのをちょっとうかがいたいんですけど。

森岡
そうですね、まぁ、たぶん柳下さんが言ってたそのジャージ映画って登場人物達がジャージを着てて、四畳半で鍋食ってるみたいな、そういう映画を一括りにジャージ映画って。
そもそも俺ジャージ映画って括り方ってぶっちゃけあんまり好きじゃなくて、童貞映画とかっていう言い方もそうなんですけど、もううるせーなと思うんですよ、本当に。関係ねーだろという気がしてて。
なんかすぐそのちょっと手の届かない恋愛映画になっちゃうと、なんか童貞映画とかっていうけど。まぁぶっちゃけ普通に人を愛するみたいな話だからさ、あんまり関係ないんだよね、そこに関しては。
で、まぁ確かに描いているキャラクター達がジャージを着ているっていうのはあるけど、だから今その新しい映画を作ったらもちろんスーツを着た主人公だったりするかもしれないけど、結局描いていく本質みたいなものは、人を愛することだったりするから、あんまりそのジャンルでこういう映画だみたいな事は考えない方がいいんじゃないかなとは今自分では思っています。
すげぇ真面目な話しちゃったね。まぁでも本当そうなんですよね。だから童貞映画とかってそういう風に括られると、すげぇ嫌なんだよなぁ。なんかたぶん、この映画(『アメリカン・スリープオーバー』)もたぶんね、神話っていう単語が原題に入ってるじゃん。それはある種、そういう風な括られ方しないための戦術だと思うんだよね。神話なんだっていう。
で、しかもそれがやっぱ神話に見えたんだよね、俺は。彼ら彼女らがそういう一夜を過ごした事がさ、デトロイト郊外のさ、その夜が明ける前の色んな家のショットに変わるじゃん。なんか普通に生きていくっていう事につながるし。もちろん水だったり流れ星だったり色んな要素があって、ただその男女の童貞映画なのかもしれないけど。それがその生きていくっていう大きいテーマにつながってくるから。まぁ、神話と言っても遜色ないだろうっていうある種の断言にも聞こえてくるし、ちっちゃい映画ねって批判する人たちへの戦術のようにも見えて。だから俺原題の神話っていう意味合いも大事なのかなって思ったんだよね。なんか答えになってますかね。

樋口
デヴィッド・リンチが自分の映画の事をご近所映画っていっているんだけど。それも要するに出てくる人たちはみんな自分の近所の事しか興味のない、世界がどうなったとか全く興味が無い人たちしか出てこないんだけど、ちょっとその中に入ると、とんでもない世界が広がっている。そのご近所の感覚と先に広がっているとてつもない世界っていうのを何とか映画で描きたいっていう事は言っているので。
ちっちゃい事がちっちゃい事でしかないって事は全くあり得ないとは思うし、映画は本当に細部の中に全体が宿るって言うような事をみせてくれる良いメディアだと思うので、それからもそのつもりでやってもらえるといいなと思いました。

森岡
がんばります。

石田
そろそろ時間なので、本日どうもありがとうございました。

樋口&森岡:
ありがとうございました。

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Killer of Sheep

スラム街に暮らす黒人たちの暮らしを鮮やかに描き、望まれながらも長らく劇場公開されなかった、黒人監督チャールズ・バーネットによる幻の傑作。 1970年代中頃、ロサンゼルスにあるワッツ地区。黒人たちが住むそのスラム街で、スタンは妻と息子、娘の4人で暮らしている。スタンは羊などの屠処理の仕事をし、一家は裕福ではなくても、それほど貧しくはない生活を送っていた。しかし仕事に励むなかで、日に日にスタンの精神は暗く落ち込み、眠れない日を送るなかで妻への愛情を表すこともしなくなっていた。 子供たちが無邪気に遊びまわっている街は、一方で物騒な犯罪が起き、スタンの周りの知人友人にも小さなトラブルは絶えない。 そんななか、家の車が故障したため知人からエンジンを買おうと出掛けるスタン。しかしエンジンを手に入れたスタンは、その直後思わぬ事態に見舞われるのであった……。

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