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『ぼくの名前はズッキーニ』レビュー!

先ごろ、ある映画雑誌で「昨年のベスト10映画の選考からアニメ作品を除外する」という価値基準が示され、映画好き、とりわけアニメが好きな人たちの間で物議を醸していました。その雑誌曰く、アニメが映画足り得ない理由は、実写作品と違ってアニメには役者の生身の演技と、そこに生じる「聖なる一回性」が存在しないからなのだそうです。

これはあくまで一映画雑誌の見識なので、この話題を耳にした時には「そんな考え方をする人もいるんだな」と気にも留めていませんでした。だって皆それぞれに“心のベスト10第一位”(©スチャダラパー)があれば良いじゃないですか!

でも、ちょうど公開中のアニメーション映画『ぼくの名前はズッキーニ』(2016)を観て、アニメに肉体の生々しさが存在しないっていうのはちょっと違うんじゃないかと思ったんです。この作品、試写会にお誘いいただき一度見ていたのですが、映画館でもう一度鑑賞して改めて考えるところがあったので、今回レビューしたいと思います。新宿ピカデリー、YEBISU GARDEN CINEMA他、全国ロードショー中です!

©RITA PRODUCTIONS / BLUE SPIRIT PRODUCTIONS / GEBEKA FILMS / KNM / RTS SSR / FRANCE 3 CINEMA / RHONES-ALPES CINEMA / HELIUM FILMS / 2016

 

不幸な事故により母親を死なせてしまい、天涯孤独の身となった男の子イカール(akaズッキーニ)は、孤児院へと送られる。そこは様々な事情により家族と住めなくなった子供たちの流れつく場所だった。初日からガキ大将のシモンにアウェーの洗礼とばかりにいじめられ、最初は仲間と馴染めなかったズッキーニだが、次第に心を通わせていく—–。

 

ジル・パリスによる同名の小説を原作に、孤独な子供たちの物語を見事なストップモーション・アニメーションで映像化してみせた本作。まず目を奪われるのは粘土の人形を一コマずつ動かしていくクレイ・アニメーションとしての精度の高さです。デジタル撮影時代の恩恵として、リアルタイムでプレビューしながら撮影することが可能になったが故のきわめて緻密な映像表現は、CGが手書きのアニメーションを淘汰していったように、ストップモーションの手法をネクストレベルへと押し上げています。

ただしそれは、偶然性をあらかじめ排除してしまう点で、先述の「アニメには聖なる一回性が存在しない」という言説を強化しているとも言えます。しかし、それだけでアニメ云々と断じるのはいささか早計です。逆に作り物の人形が生々しい身体を獲得していると宣言するために、本作のもうひとつ卓越した点である音響設計についても触れておかねばなりません。

例えばズッキーニが興奮したり動揺したりするとき、その密やかな息遣いに合わせて、彼の肩は絶えず上下しています。また彼が一目惚れするヒロインのカミーユを見初める瞬間、はっと息を飲むズッキーニの声にもならぬ声が、このフィルムには確かに刻印されているのです。

一般的にアニメの音声収録では、セリフ以外の呼吸音や衣ずれなどは、脚本にト書きされていない限りは最小限に留められています。指向性の高いマイクを用い、コンプレッサーなどを介して、なるべくセリフが聞き取りやすい環境で録音するのが定石のはずです(違っていたらすみません)。ですが本作のアフレコのメイキング映像を見ると、実写映画と同じように録音技師がブームポールを振っていて、その先にはおそらく全方位の音を取り込むであろう球状のマイクが取り付けられています(違っていたらすみません、素人なので…)。そして録音スタジオは障害物のない広い空間になっていて、子供たちは実際の身体の動きを再現しながら演技しているのがわかります。

役者の演技だけではなく、環境音についても同じことが言えます。例えば風が揺らす木々のざわめきや、あるいは雑踏の賑わいやパトカーのサイレンなど、この世界のあらゆる音がこの映画では絶えず聞こえてきます。言うまでもなく本作はアニメーションなので、そういった音声はアフレコしているわけですが、そのリアリズムには素晴らしいものがあります。特にフレーム外を意識させる音—–隣の部屋で先生が何かを話している、窓の外で鳥たちがさえずっている—–などは、作り手が想像力を働かせなければ決して生み出すことのできない表現です。そしてそれは、実写映画にとっての音響設計と本質的には同じはずです。

ことほどさように『ぼくの名前はズッキーニ』は、こと音声についていえば実写映画と変わらない、むしろ並の映画以上の細心さを以て作り上げられているといえます。

©RITA PRODUCTIONS / BLUE SPIRIT PRODUCTIONS / GEBEKA FILMS / KNM / RTS SSR / FRANCE 3 CINEMA / RHONES-ALPES CINEMA / HELIUM FILMS / 2016

 

と、ここまで書いてきたものの、こんな風に技術面が優れているからアニメーションは実写映画と一緒なんだ!と声をあげたいわけではないんです。この作品の良さは理屈抜きに見てもらえれば分かることですし、第一アニメがどうした、実写がどうしたという議論自体がぶっちゃけ不毛ですよね……。

ここからは『ぼくの名前はズッキーニ』の子供たちがなぜ生き生きと躍動しているのか、もう少し違う側面からお話ししたいと思います。

 

この映画で監督のクロード・バラスと共同で脚本を執筆したのは、セリーヌ・シアマという女性です。彼女自身も映画監督で、『水の中のつぼみ』(2007)や『トムボーイ』(2011)など、思春期の少女の感性を瑞々しく描いた作品を発表しています。実はグッチーズ・フリースクールでも昨年、東京藝術大学の未公開映画上映会でシアマ監督の最新作『ガールフッド』(2014)を上映しています!当然日本未公開。見逃した皆さん、ご愁傷様でした…またどこかで上映できれば良いのですが。

クロード・バラス監督と、脚本のセリーヌ・シアマ(引用:http://www.ungrandmoment.be/interview-celine-sciamma-ma-vie-de-courgette/)

 

閑話休題。このセリーヌ・シアマ監督の作家性こそ、ここまで再三語ってきた身体性にあるのです。

『ぼくの名前はズッキーニ』に、誰もがグッとくるであろうダンスパーティのシーンがあります。

孤児院のみんなで行ったスキー旅行で、雪山のコテージに泊まった夜、先生がラップトップでDJをしてくれる。冷静に考えればなぜ山小屋にあるのか分からないミラーボールの光がそこかしこに舞い、子供たちは思うままに手足を動かして踊ります。こんな孤児院だったら入ってみたいな、と思わせてくれる最高なシーンなのですが、実はこれは原作にはない場面です。その代わり、よく似たダンスシーンがシアマ監督の『ガールフッド』にあるのです。

『ガールフッド』の少女もズッキーニと同じく家族から疎外された、孤児のような存在です。彼女が仲良くなった不良少女たちと共に家出して、泊まったホテルでリアーナの“Diamonds”で踊るのがこのシーンです。山小屋のミラーボールと同じくらい非現実的な青い照明で照らされて、ダイナミックに飛び跳ねる少女たちがとても幻想的で美しいのですが、なぜシアマ監督は自身の作品にこうしたシーンを織り込むのでしょうか。

また別の一例を挙げるとするなら、ズッキーニとシモンが組み合ってケンカするシーンがありますが、これも同じようなシーンが『ガールフッド』に見られます。不良少女同士が決闘することで、そのコミュニティーで存在感を示していく。あるいは仲間同士の絆を深めていきます。ズッキーニもまた、シモンとのケンカをきっかけに孤児院の一員として受け入れられていきます。

©RITA PRODUCTIONS / BLUE SPIRIT PRODUCTIONS / GEBEKA FILMS / KNM / RTS SSR / FRANCE 3 CINEMA / RHONES-ALPES CINEMA / HELIUM FILMS / 2016

 

そう、セリーヌ・シアマという映画作家は、寄る辺のない子どもたちが身体の交流—–それは時に暴力を伴います—–を経て再び社会にコミットしていくドラマを繰り返し語ってきた人なのです。そして彼女が脚本に加わった『ぼくの名前はズッキーニ』も例外ではなく、やはり子どもの身体性が映画の動力源となっているのです。芝居の一挙手一投足をシミュレーションしなければ成立し得ないストップモーション・アニメは、こうしたシアマの作家性と意外なほど相性が良く、逆に彼女が脚本に参加したことで、大人たちの作る人形劇に子どもの情動が宿ったのではないでしょうか。

 

冒頭の映画雑誌の話に戻ると、アニメーションが映画として認められないのは、牧野省三の「1スジ、2ヌケ、3ドウサ」という格言におけるドウサ(生身の演技)がないからだそうですが、こうして考えてみると、映画ってスジ(ストーリー)やヌケ(映像)、そしてドウサが有機的に関係し合って映画になるんじゃないでしょうか。今死ぬほど当たり前のことを言った気がして恥ずかしいですが。そういった意味では、『ぼくの名前はズッキーニ』はこれ以上ないくらい「映画」になっていると思います。あれこれ理屈で考えるよりも、ぜひ劇場で観ていただきたい作品です。オススメです!!

 

 

■監督 クロード・バラス

■脚本 セリーヌ・シアマ

■原作 ジル・パリス「ぼくの名前はズッキーニ」(DU BOOKS刊) 

■原案 ジェルマーノ・ズッロ、クロード・バラス、モルガン・ナヴァロ

■音楽 ソフィー・ハンガー

■配給 ビターズ・エンド、ミラクルヴォイス

■宣伝 ミラクルヴォイス

スイス・フランス/2016年/カラー/66分/ヴィスタサイズ/5.1ch/フランス語/原題:Ma vie de courgette/日本語字幕:寺尾次郎

公式サイト:http://boku-zucchini.jp/index.html

新宿ピカデリー、YEBISU GARDEN CINEMA他、全国ロードショー中です!

(text:関澤 朗)

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Killer of Sheep

スラム街に暮らす黒人たちの暮らしを鮮やかに描き、望まれながらも長らく劇場公開されなかった、黒人監督チャールズ・バーネットによる幻の傑作。 1970年代中頃、ロサンゼルスにあるワッツ地区。黒人たちが住むそのスラム街で、スタンは妻と息子、娘の4人で暮らしている。スタンは羊などの屠処理の仕事をし、一家は裕福ではなくても、それほど貧しくはない生活を送っていた。しかし仕事に励むなかで、日に日にスタンの精神は暗く落ち込み、眠れない日を送るなかで妻への愛情を表すこともしなくなっていた。 子供たちが無邪気に遊びまわっている街は、一方で物騒な犯罪が起き、スタンの周りの知人友人にも小さなトラブルは絶えない。 そんななか、家の車が故障したため知人からエンジンを買おうと出掛けるスタン。しかしエンジンを手に入れたスタンは、その直後思わぬ事態に見舞われるのであった……。

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