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「写宅部!」(プレミア映写を宅でする部)12日目-遠征編-

デイモン・ガモー監督『あまくない砂糖の話』の試写で見せていただいたので、写宅部の遠征編を始めたいと思います。(2016年3月19日(土)シアターイメージフォーラムほか順次公開です!)

「カロリーって知っていますか?」

という珍質問と迷回答によって、マクドナルドのバーガーとともにアメリカ人のヤバさを描き出した『スーパーサイズ・ミー』(1日3食、マクドナルドのハンバーガーを1ヶ月間食べ続けるという実験をした映画)から10年、60日間スプーン40杯分の砂糖を摂取し続けたら一体どうなってしまうのかという監督被験者映画がオーストラリアで誕生した。それがこの『あまくない砂糖の話』である。

(⇧『あまくない砂糖の話』予告編)

監督被験者映画が人をどうしようもなく惹き付けるのは、映画というものがすべからく実験である、ということに由来する。ドキュメンタリーやフィクションにかかわらず映画は実験だ。事柄Xに対して、それは一体全体なんなのかを作り手は追求し、観客は見守る。その実験がスリリングであればあるほど作り手達は難儀し、観客は感嘆するだろう。あるいは実験方法になにかインチキがあれば観客たちは非難する。

映画=実験という定式を鑑みれば、実に困難な実験に乗り出したデイモン・ガモー監督(実験者であり被験者)はそれだけで賞賛に値する。

困難というのはまず第一に相手が砂糖だからだ。現在、砂糖はさまざまに姿を変えて、実に加工食品の80%に砂糖が入っているらしい。つまりデイモン・ガモー監督は遍在する砂糖という溢れすぎているがゆえに不可視の砂糖を相手にしなければならないということである。

さらに、聡明な方ならお分かりの通り、砂糖といってもいくつもの種類がある。ブドウ糖に乳糖にショ糖、果糖、異性化糖だ。普通の方ならもうほとんどなにがなんだかわからないだろう。「60日間スプーン40杯分の砂糖を摂取し続ける実験」における砂糖はどの砂糖なのだ。一体全体どのように行えば、正確な実験となるのかすでにさっぱりだ。

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(⇧左上からブドウ糖、乳糖。左下からショ糖、果糖である。)

ハンバーガーの実験はそれに比べれば楽な気さえする。なぜならマクドナルドに行けばいいからだ。勢いとノリでなんとなく実験出来そうではある。しかし砂糖は違う。どの種類の砂糖をどの食品によって摂取すればいいのか常人は歩き出す前からすでに道を見失い途方に暮れるだろう。

しかもハンバーガーの実験をした男、モーガン・スパーロック(『スーパーサイズ・ミー』の監督)はハンバーガーが大好きなんだ。つまるところほとんどご褒美だ。実際、映画を見れば分かる通り、はじめはノリノリである(最後はボロボロである)。だが、デイモン・ガモー監督は別に砂糖大好きじゃないんだ。むしろナチュラル志向の嫁の影響で、ナチュラルな食品が好きなんだ。

さて、全く持って絶望的な60日間の旅の始まりかと思うのだが、実のところ、映画は正確な実験をするにはどうすればよいかの説明を、グラフィカルに見事クリアーに行っており(とても映像的なその語り口をここで説明するのは難しいが)、極めて知的な映画であることを言っておきたい。悪ノリでは決してなく、極めて知的かつユーモラスに砂糖による体の変化を語っているのが見所の一つだ。

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(⇧あまくないのむヨーグルト……!これはいいんじゃないか。砂糖未使用だ……。)

もう一つ『あまくない砂糖の話』の見所、特徴は相手との距離の取り方である。フィクションでももちろん同じだが、ドキュメンタリー映画において、映す者と映される者の距離感は極めて重大な問題だ。基本的には映す者の方が映されるものよりも遥かに優位にあるからだ。

最初の文章でも触れたが「カロリーって知っていますか?」という質問を知っていなさそうな人々に投げかけ、迷回答を引き出そうとしているかに見える『スーパーサイズ・ミー』は、この被写体との距離感において、一体どうなのだろうと疑問に思うことがある。『スーパーサイズ・ミー』はあえて言ってしまえば、被写体を軽んじてはいないか(正直、めっぽう面白いが)。あるいはマイケル・ムーア的な最強の武器であるところのカメラを持って、ドカドカと相手に攻め入る姿勢、ハナから被写体にレッテル張りをするのも辞さない節度の無さ(が、逆に功を奏することもあるのでドキュメンタリーは難しい)とも違って、『あまくない砂糖の話』のデイモン・ガモーは、ひと際、孤独に見える。被写体、仲間、敵はどこにいるのだろうか。

もちろん実験を(主に健康面で)サポートしてくれるチームや、最愛の嫁の存在はいる(しかも美人だ)。しかし、相手である砂糖は不可視の存在だ。砂糖と距離を取ることも懐に入り込むことも極めて困難であり、それは孤独な実験となる。(ちなみに『スーパーサイズ・ミー』ではカロリーが問題とされていたが、この『あまくない砂糖の話』は実はカロリーが問題なのではなく、砂糖が問題であることを喝破している。砂糖を敵とすることにオイシく思わない連中によって、カロリーは砂糖の罪を押し付けられたのだが、詳しくは映画をご覧いただきたい)。

そのことが最も表れるシークエンスがある。それは監督のデイモン・ガモーが最愛の嫁やチームと離れ、単身“砂糖大国”アメリカに渡り、どうにか砂糖の正体を掴もうとする旅のことである。ケンタッキー州の田舎町、マウンテンデューを赤ん坊のところから愛飲し、いまやほとんど全ての歯がボロボロになった一人の青年と出会うシーンはこの映画で最も孤独で恐ろしいシーンの一つだ(その青年の歯を見るだけでもこの映画を見るべきだというほどに衝撃的な歯だ)。

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(⇧これがマウンテンデューだ。)

マウンテンデュー大好き青年と出会ったデイモン・ガモーは歯科医とともにその青年の歯の治療に立ち会うのだが、青年はガモーと別れる際に「これからもマウンテンデューは飲み続ける」と言い残し、駆け付けた母親とともに去っていくだろう。ここでのガモーはほとんどなす術無くただ立ち尽くすのみといってよいほどに無力で孤独なのである。

もし、この映画を見て、そしてこの場面を見て、砂糖に対する考え方を改め食生活を改善し、より健康的な生活が送れることになる人々が一人でも多く生み出せたのなら、ガモーの実験は成功だ。そして監督も心の底から成功を願っているだろう。しかしマウンテンデュー大好き青年を救えなかったと無力ささえ漂う場面を誠実に映画の中に残したデイモン・ガモー監督は、『あまくない砂糖の話』の成功は、あまくないどころかどこまでいっても苦い成功でしかないことも理解している。

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(2016年3月19日(土)シアターイメージフォーラムほか順次公開です!)

(text:satoshifuruya

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Killer of Sheep

スラム街に暮らす黒人たちの暮らしを鮮やかに描き、望まれながらも長らく劇場公開されなかった、黒人監督チャールズ・バーネットによる幻の傑作。 1970年代中頃、ロサンゼルスにあるワッツ地区。黒人たちが住むそのスラム街で、スタンは妻と息子、娘の4人で暮らしている。スタンは羊などの屠処理の仕事をし、一家は裕福ではなくても、それほど貧しくはない生活を送っていた。しかし仕事に励むなかで、日に日にスタンの精神は暗く落ち込み、眠れない日を送るなかで妻への愛情を表すこともしなくなっていた。 子供たちが無邪気に遊びまわっている街は、一方で物騒な犯罪が起き、スタンの周りの知人友人にも小さなトラブルは絶えない。 そんななか、家の車が故障したため知人からエンジンを買おうと出掛けるスタン。しかしエンジンを手に入れたスタンは、その直後思わぬ事態に見舞われるのであった……。

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