「写宅部!」(プレミア映写を宅でする部)13日目-遠征編-
ニュルンベルク出身の作家ティムール・ヴェルメシュが書いたヒトラーを題材にした“小説”をドイツ出身のデヴィッド・ヴェンドが監督した『帰ってきたヒトラー』を試写で見せていただいたので、写宅部の遠征編を始めたいと思います。(2016年6月17日(金)TOHOシネマズ シャンテ他全国順次ロードショーです!)
そう、この映画はヒトラーを扱った小説の映画化です。評論でも伝記(ノンフィクション)でもなくドイツではとても話題のベストセラーになった小説(フィクション)。しかもドイツの作家が書いたものをドイツ人の映画監督が映画化した作品です。
2016年、ドイツでは70年間発禁とされていた『わが闘争』が再出版されました(ちなみに『わが闘争』というドキュメンタリー映画があるが、こちらはヒトラー著の『わが闘争』とはまったく関係がないみたいです)。
ドイツでは『わが闘争』は発禁処分となっていましたが、どうやらバイエルン州の法律により、著者=アドルフ・ヒトラー死後70年ということで著作権が切れ、発禁も解除となったとのこと。むろん、『わが闘争』は読まれるべきだ、あるいは出版されるべきではない、という大きな反響がありつつ、結局は多くの部数が売れました。まさに帰ってきたヒトラー状態であるわけですが、この映画『帰ってきたヒトラー』はタイトルが示す通り、ヒトラーが戻ってくる=死の直前に現代にタイムワープしてきたところから始まります。
ヒトラーが現代に、といってももちろん本物のヒトラーが現代に生きているなんてことは誰も信じません。みなはヒトラーそっくりの芸人かなにかだと思う。ある者は嫌悪感を、ある者は面白がって歓迎します。ヒトラーは自分が本物のヒトラーだと信じてもらえてない状況を上手いこと取り入れて、芸人としてテレビを通して現代ドイツにもの申すという形で政治活動を開始します。
そして誰もが本物だとか偽物だとかの問題を越えて“ヒトラー”に魅了され翻弄されていく……というのがこの映画の物語(フィクション)です。ヒトラーが現代に生きているという非現実的(ノンリアル)な設定は、しかしもしヒトラーがいたらこうなるという回りのリアクションによって映画にリアリティを付与していきます。
そのうえでこの映画が巧妙なのが、ヒトラーそっくりさん(映画の中ではヒトラー本人)とともにドイツ行脚を敢行し、そこで出会った一般の(映画の登場人物とし てではなく、街にヒトラーのそっくりさんがやってきたと思った)人々の反応を収めたドキュメンタリーパートを取り入れたセミ・ドキュメンタリーという手法を仕掛けた、ということです。
そして現実の現代ドイツにまだヒトラー時代の記憶を残している人たちが生きている、ということもこの映画が“いま”撮られ発表されたことに大きな意味を持っています。実際にヒトラーの恐ろしさを”リアルタイム”で知っているおばちゃまが現れたとき、この映画は、最もクリティカルな瞬間を迎えるということを指摘しておきたいと思います。
さてここでリアルはアクションに、リアリティはリアクションに宿るというノンフィクション(ドキュメンタリー)/フィクションをめぐるとても深淵な問題提起を掲げても一興だと思うのですが、この映画で注目したいことは実は他にあります。
それは“そっくりさん”とはなにか、ということです。その点で(政治的な側面以外の点でも)、この映画は極めて興味深い作品となっています。
写真的なメディアは、対象と似ていることで同一性を証明するメディアです。そのことを鑑みれば、現代でヒトラーが発見される瞬間を、しがないテレビマンの男が自身の撮影していた番組の画面の隅っこにヒトラーが映っていたことに気付く、という演出で描くこの映画の構成はなかなか洒落ています。
映画において、映像のなかに“たまたま”ある人物を見つける、というシチュエーションは発見された者の存在証明をめぐる迷宮に入り込むのがお決まりです。
存在しない者が映り込んでいた場合にはそれは幽霊という形のホラーになるかもしれません。いてはいけない者の場合には、アリバイ(不在証明)が崩れるきっかけとなるでしょう。
この映画は、しかしまったく、似ているということが証明にならないわけです。というよりヒトラーに似ているからこそ、偽者だと思われるとさえ感じてくるから不思議です。もしも126歳?127歳?のまったくあのヒトラーとは外見の違うよぼよぼのおじいさんが私はヒトラーである、と言ったのならばあやうく信じてしまうかもしれない。
このような身元証明の映画として『帰ってきたヒトラー』を見てみると、『チャップリンの独裁者』はもちろんのこと、1942年、ナチス占領下のパリ、フランス人である男=美術商のロベール・クラインが、同姓同名のユダヤ人と間違えられてナチスのユダヤ人狩りに巻き込まれてしまう恐るべき映画『パリの灯は遠く』なども彷彿としなくもありません。しないかもしれませんけれど。
(⇧左『チャップリンの独裁者』、右『パリの灯は遠く』)
つまり“似ている”ということは完全に本人の証明にはなりえない。証明写真というものがありますが、これも同断です。まことに身元証明というものはやっかいなものであるわけです。
では、どのように証明されるのか。
そこで写真的なるもの=似ているものに同一性を見出すメディアと対比して語られるのに指紋がある、という観点から書物を書いた橋本一径氏『指紋論 ——心霊主義から生体認証まで』(について細馬氏が書いた紹介文)にお助け願おうと思います。
(前略)指紋と対照的なものとして、非接触的なメディアである写真、そしてその被写体である顔が、各所で引き合いに出される。何かと似ることによってしか同一性を 示し得ない写真と、痕跡であることの確かさによってしか同一性を示し得ない指紋。両者の対比を繰り返しながら、論考は、心霊を観てしまうわたしたちの認知じたいの禍々しさを次第にあぶり出す。(by 細馬宏通)
顔や姿が似ているということを担保にする同一性=写真と、接触したことの痕跡=指紋という二つの同一性に関する問題を扱った本書は、写真=痕跡というイメージを刷新するにとても刺激的な一冊であることは間違いありませんが、この映画では、そっくりのヒトラーはそのそっくりさ(似ている)では本人であることの証明になりません。では接触による痕跡=指紋的なことからヒトラーはヒトラーたりえるのでしょうか。
実は“指紋”に関しては(橋本氏も触れていますが)イギリスの科学者、フランシス・ゴルトンさんが書いたその名も『指紋 Finger Prints』という著作もあります。このゴルトンさん、種差や遺伝の研究に指紋の将来性を認めようとしていたのですが、それらの自らの研究に「優生学」という名称を付したという呼吸に、(ナチス政権の人種政策はもちろんのこと)ヒトラーが題材なる作品の多くに“身元”という問題系が付け加えられることを重ねてみるのは、一つの愉しみかもしれません。が、いよいよ映画とはズレていくので、またの機会に。
ズレたついでに、指紋による生体認証ということからの派生系として生体ならぬ、声帯はどうなのか、ということもやはり考えざるおえないわけですが、声が似ている、あるいはそう聞こえるという問題は、以下の動画を貼ってとりあえずは深入りしないことにしたいと思います。
『帰ってきたヒトラー』のキャッチコピー「笑うな危険」がまさに当てはまる動画であるわけですが、まったく本編とは関係ありません。すいません。
ヒトラーをヒトラーと気付く瞬間は一体どのようなときに訪れるのか。
詳しくはぜひ『指紋論』を片手に映画本編をあたって欲しいと思いますが、“心霊を観てしまうわたしたちの認知じたいの禍々しさ”はこの映画ではヒトラーそっくりさん(本人)に、ヒトラーであるという認知というよりも、その彼に宿るカリスマ性を魅てしまう禍々しさとどうやら通じているように感じるのですが、はてさて自分たちの中にある禍々しさを見つめ発見するためにもぜひ『帰ってきたヒトラー』をお勧めして、終わりたいと思います。(2016年6月17日(金)TOHOシネマズ シャンテ他全国順次ロードショーです!)
© 2015 MYTHOS FILMPRODUKTION GMBH & CO. KG CONSTANTIN FILM PRODUKTION GMBH
原題:Er ist wieder da/2015年/ドイツ映画/116分/カラー/ビスタ/5.1chデジタル
公式サイト:gaga.ne.jp/hitlerisback
監督:デヴィッド・ヴェンド
出演:オリヴァー・マスッチ ファビアン・ブッシュ クリストフ・マリア・ヘルプスト カッチャ・リーマン
原作:『帰ってきたヒトラー』ティムール・ヴェルメシュ著(河出文庫 訳:森内薫)
(text:satoshifuruya)
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