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『わたしは金正男を殺してない』レビュー!

人間の命は、はたして本当に重いのか?


映画『わたしは金正男を殺してない』のチラシを初めて見たとき、ああ、そんな事件もあったなぁ、と薄情ながら思った。
と同時に、チラシに映る二人の女性、シティ・アイシャとドアン・ティ・フォンを見て、「この人たちが犯人なんじゃなかったけ。わたしは金正男を殺してないってどういうこと?」とも思った。

世界各国にとって衝撃的だった金正男暗殺事件。しかし今日、その事件がどのような背景で起こったのか、犯人として逮捕された女性たちはどうなったのか、思いを巡らせる人はごくごく僅かだろう。監督のライアン・ホワイトも『金正男暗殺事件は、あらゆる人々の記憶には残っているが、その詳しい内容を覚えている者はほとんどいない。断片的なことや、センセーショナルな事件だったという印象だけが人々の心に残っているんだ』と語る。今作はそういう「人々」にとって、あまりに衝撃的なドキュメンタリーであり、だからこそ、そういう「人々」に届いてほしい映画だと感じた。

映画『わたしは金正男を殺してない』は、シティとドアンが意思を持って金正男を殺したのではないか?と意図的に観客に思わせるところから始まる。冒頭は事件当日の防犯カメラの映像とベナー・ニュースの記者、ハディ・アズミの語りで構成され、事件がどのように起きたのか、シティとドアンがどのような足取りだったのか、いわゆるニュース番組を流し見したときに知れるレベルの情報しか提示されない。当然、私のような金正男暗殺事件の詳しい内容を覚えていない観客は、「そうそう、こんな事件だった。結局この2人が暗殺したんでしょ?」と思わされる。

中盤以降、シティとドアンの家族、ワシントン・ポスト北京支局長のアンナ・ファイフィールド、そしてシティとドアンの弁護団が登場すると、次第に観客は思い始める。「もしかしてこの二人は、金正男を殺していないんじゃないか?」と。彼女たちが意思を持って殺したわけではない証拠が揃いすぎているし、弁護団の確固たる信念をもった仕事ぶりが、あまりにも印象的だったからだ。

そして終盤、冒頭で使われた暗殺前後の監視カメラ映像が、シティとドアン本人たちの証言も重ねながら、再び流れる。そこで観客は確信する。「二人は金正男を暗殺したわけじゃない」と。シティとドアンに対して向けていた疑惑の目が、完全に晴れるのだ。そして、二人が置かれている、あまりに理不尽な状況に怒りや悲しみを覚えるに至る。

映画の進行と共に、観客は立場の変移を体感する。はじめは(ほとんどが自覚的な悪意なく)、シティとドアンを非難する立場にいるが、終盤には、彼女たちを支持し無罪を祈る側に立場を改めるのだ。映画の巧みな構成を賞賛したい気持ちと共に、こんなにも簡単に立場を変える自分自身が、報道されるニュースの裏にどんな真実があるのか知ろうとしなかった自分自身が、少し怖くもなった。

『わたしは金正男を殺してない』を観て一番強く思ったこと、それは、本当に人の命は重いのか?ということだ。確かにこの世界に存在する、シティ・アイシャとドアン・ティ・フォンの人生が、あまりにも軽くぞんざいに扱われ、奪われ壊されていく様に怒りと絶望を感じた。終盤、北朝鮮工作員が犯行を見届け、秘密裏に出国しようとした姿が映し出される。彼らは笑っていた。まるで今から旅行に出かけますといわんばかりの軽い表情で笑っていたのだ。金正男を(直接手は下していないが)殺したばかりなのに。シティとドアンを置き去りにして、自分たちは逃げようとしているのに。彼女たちにだって、猛毒のVXが全身に回り、死に至る危険性があったのに。
本当にシティとドアンのことなど、なんとも思っていないのだと感じ取らせた瞬間だった。

何よりも尊重されるべきはずの人の命が、人生が、あっけなくめちゃくちゃにされてしまっている……。そして、それは私が生きている世界で確かに起こった出来事であり、いつ自分の身に降りかかってもおかしくない。この重すぎる事実をどう受け止めていいのかわからないでいる。
だが今作を観たからこそ、命の重さについて、シティとドアンの人生について、思いを馳せることができた。この映画を完成させ、世に広めてくれたことに感謝したい。

北朝鮮の国情や歴史について詳しくない人にも、しっかりと金正男暗殺事件の経緯が分るよう丁寧な説明を交えながら、映画が作られている。弁護団、ジャーナリスト、友人、家族。様々な立場からの証言が折り重なる。映画チームが時間をかけて、粘り強い取材をし続けたことが感じ取れる一作だ。

「わたしは金正男を殺してない」
この言葉にひっかかりを覚える人にこそ、ぜひ鑑賞してほしい。


『わたしは金正男を殺してない』

10/10(土) シアター・イメージフォーラム ほか全国順次公開

監督:ライアン・ホワイト『おしえて!ドクター・ルース』『ジェンダー・マリアージュ 全米を揺るがした同性婚裁判』

2020年/アメリカ/英語ほか/104分/英語題:ASSASSINS/© Backstory, LLC. All Rights Reserved./ 配給:ツイン公式HP

https://koroshitenai.com/

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Killer of Sheep

スラム街に暮らす黒人たちの暮らしを鮮やかに描き、望まれながらも長らく劇場公開されなかった、黒人監督チャールズ・バーネットによる幻の傑作。 1970年代中頃、ロサンゼルスにあるワッツ地区。黒人たちが住むそのスラム街で、スタンは妻と息子、娘の4人で暮らしている。スタンは羊などの屠処理の仕事をし、一家は裕福ではなくても、それほど貧しくはない生活を送っていた。しかし仕事に励むなかで、日に日にスタンの精神は暗く落ち込み、眠れない日を送るなかで妻への愛情を表すこともしなくなっていた。 子供たちが無邪気に遊びまわっている街は、一方で物騒な犯罪が起き、スタンの周りの知人友人にも小さなトラブルは絶えない。 そんななか、家の車が故障したため知人からエンジンを買おうと出掛けるスタン。しかしエンジンを手に入れたスタンは、その直後思わぬ事態に見舞われるのであった……。

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