石井裕也監督最新作『生きちゃった』レビュー!
セリフと身振りの間で愛を叫ぶ
「至上の愛」をテーマに映画製作の「原点回帰」を探求するというコンセプトのもと、アジアの監督たち計6名が各々映画作りを行う「B2B(Back to Basics)A Love Supreme」というプロジェクトとして撮られた石井裕也監督の最新作『生きちゃった』は、なによりもまず「映画とはなにか」をラジカルに問う問題作だ。
映画はいつも愛を叫ぶ(あるいはささやく?)ものだとするならば、愛はどのように表現されるだろう? 愛は叫ぶその内容、つまりはセリフに宿るのか、それとも叫んでいるその様、つまりは身振りに宿るのか。『生きちゃった』が問うのは、ずばり動作とセリフのエモーショナルな関係であるように思える。
『生きちゃった』は、仲野太賀演じる主人公、厚久を筆頭に誰もが言葉足らず、あるいはやたらに饒舌だ。けれども誰もが自分の感情をぴたりと言い表すことができずにいる。言葉はあるとき感情を上手くすくい取れず、あるときは過剰に意味をはらみすぎてしまうだろう。身振りはどうだ。この映画には静の厚久と動の奈津美(大島優子)がいるのだが、静の厚久の感情は解読不明で、奈津美はその激しい身振りで感情が正確にはわからない。そうして『生きちゃった』の登場人物たちは、誰しも愛を伝えられずにいる。
愛を叫ぼうとすると、その瞬間にいつも愛ではないなにかに変わってしまい、愛が愛ではなくなってしまう。しかし、そんな恐れや理不尽さ、迷いや困難さが本作をエモーショナルなものにし、そのままの愛を伝えることの渇望が映画をこれ以上ない純粋なものとして輝かせる。
そのうえで動作とセリフ、つまりは「映画とはなにか」を問う『生きちゃった』は、叫ぶでもささやくでもない愛の伝達方法(メディア)をすっと忍び込ませる。それは、映画以前の幻燈のようなものだ。
石井監督いわく「信頼できる仲間」のみを集めたという個性豊かな俳優たちの静寂でパワフルな演技に対して、セリフもなければ表情もなく、そもそも俳優ですらないその影たのち静かな美しさは、「映画とはなにか」をますますわからなくさせる。
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