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石井裕也監督最新作『生きちゃった』レビュー!

セリフと身振りの間で愛を叫ぶ


「至上の愛」をテーマに映画製作の「原点回帰」を探求するというコンセプトのもと、アジアの監督たち計6名が各々映画作りを行う「B2B(Back to Basics)A Love Supreme」というプロジェクトとして撮られた石井裕也監督の最新作『生きちゃった』は、なによりもまず「映画とはなにか」をラジカルに問う問題作だ。

映画はいつも愛を叫ぶ(あるいはささやく?)ものだとするならば、愛はどのように表現されるだろう? 愛は叫ぶその内容、つまりはセリフに宿るのか、それとも叫んでいるその様、つまりは身振りに宿るのか。『生きちゃった』が問うのは、ずばり動作とセリフのエモーショナルな関係であるように思える。

『生きちゃった』は、仲野太賀演じる主人公、厚久を筆頭に誰もが言葉足らず、あるいはやたらに饒舌だ。けれども誰もが自分の感情をぴたりと言い表すことができずにいる。言葉はあるとき感情を上手くすくい取れず、あるときは過剰に意味をはらみすぎてしまうだろう。身振りはどうだ。この映画には静の厚久と動の奈津美(大島優子)がいるのだが、静の厚久の感情は解読不明で、奈津美はその激しい身振りで感情が正確にはわからない。そうして『生きちゃった』の登場人物たちは、誰しも愛を伝えられずにいる。

愛を叫ぼうとすると、その瞬間にいつも愛ではないなにかに変わってしまい、愛が愛ではなくなってしまう。しかし、そんな恐れや理不尽さ、迷いや困難さが本作をエモーショナルなものにし、そのままの愛を伝えることの渇望が映画をこれ以上ない純粋なものとして輝かせる。

そのうえで動作とセリフ、つまりは「映画とはなにか」を問う『生きちゃった』は、叫ぶでもささやくでもない愛の伝達方法(メディア)をすっと忍び込ませる。それは、映画以前の幻燈のようなものだ。

石井監督いわく「信頼できる仲間」のみを集めたという個性豊かな俳優たちの静寂でパワフルな演技に対して、セリフもなければ表情もなく、そもそも俳優ですらないその影たのち静かな美しさは、「映画とはなにか」をますますわからなくさせる。

「生きちゃった」
10月3日(土)よりユーロスペースにて公開
出演:仲野太賀、大島優子、若葉竜也
監督・脚本・プロデューサー:石井裕也
配給:フィルムランド
R-15

(c)B2B, A LOVE SUPREME & COPYRIGHT @HEAVEN PICTURES All Rights Reserved

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Killer of Sheep

スラム街に暮らす黒人たちの暮らしを鮮やかに描き、望まれながらも長らく劇場公開されなかった、黒人監督チャールズ・バーネットによる幻の傑作。 1970年代中頃、ロサンゼルスにあるワッツ地区。黒人たちが住むそのスラム街で、スタンは妻と息子、娘の4人で暮らしている。スタンは羊などの屠処理の仕事をし、一家は裕福ではなくても、それほど貧しくはない生活を送っていた。しかし仕事に励むなかで、日に日にスタンの精神は暗く落ち込み、眠れない日を送るなかで妻への愛情を表すこともしなくなっていた。 子供たちが無邪気に遊びまわっている街は、一方で物騒な犯罪が起き、スタンの周りの知人友人にも小さなトラブルは絶えない。 そんななか、家の車が故障したため知人からエンジンを買おうと出掛けるスタン。しかしエンジンを手に入れたスタンは、その直後思わぬ事態に見舞われるのであった……。

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