『グレイ・ガーデンズ』&『グレイ・ガーデンズ ふたりのイディ』解説
『グレイ・ガーデンズ』&『グレイ・ガーデンズ ふたりのイディ』上映イベントを開催するにあたり、映画評論家の藤井仁子さんに、『グレイ・ガーデンズ』二部作、特に製作・監督のメイズルス兄弟について解説いただきました。 本作やメイズルス兄弟はもちろん、フレデリック・ワイズマンや「ダイレクト・シネマ」などに興味がある方も必読の解説です!
待望の『グレイ・ガーデンズ』日本上映とともに未知の扉が開かれる
藤井仁子(映画評論家)
映画史のミッシングリンク
『グレイ・ガーデンズ』『グレイ・ガーデンズ ふたりのイディ』の2作品連続上映によって映画史のミッシングリンクがついに埋められようとしている。まずはその事実を喜ぶべきだろうが、ミッシングリンクといってもほとんど日本だけのもので、ずっと周回遅れだったのがようやく解消されるというだけの話だからあまり無邪気に喜んでもいられない。とにかくこの上映は、たんに未公開だった2本のアメリカ映画が日本に紹介されるという以上の、従来不当に閉ざされていたいくつもの扉が開くきっかけとなる平成最後の(?)映画的事件だと声を大にして強調したいのである。
今回の上映によって開かれる扉の最たるものは、フレデリック・ワイズマンだけでアメリカの、ひいては現代のドキュメンタリー映画をわかったつもりになる傲慢から日本の観客がやっと解放されるというものだ。いや、昔はそのワイズマンさえまともに見られなかったのだから、こんなふうにいえるようになっただけはるかに状況は改善されたということなのだが(とはいえ、正式に劇場公開されたワイズマンの作品は、残念ながら彼の凄さを本当には伝えていないという事実をはっきり指摘しておこう)、黒澤明だけで日本映画を語られては何とも居心地が悪いのと同じように、ワイズマンも実のところ周囲からはかなり孤立した、まったく特異な存在であるというべきだろう(だからこそ作家として特別視もされる)。
誰もが指摘してきたように、ワイズマンが好んでキャメラを向けるのは何らかの施設や制度(インスティテューション)である。学校、軍隊、裁判所からナイトクラブやバレエ団に至るまで、そのインスティテューションを構成するさまざまな人々の営みが切れ味鋭い編集でつなぎあわされ、映画を見終わる頃には個人を超えた巨大な機構の存在がくっきりと浮かびあがる。そこには劇伴としての音楽も超越的な語り手によるナレーションもなく、撮影者の存在が観客に察知される瞬間は周到に排除されているために、対象を見つめるキャメラのまなざしには人間的な感傷を超えたニヒリズムさえ感じられる。物の本には、ワイズマンもその一人と目されている「ダイレクト・シネマ」なるドキュメンタリー映画の潮流は、つくり手の主観的な意味づけを排した「観察」を特徴とすると書いてあるものだから、なるほどこれが「観察」かと人はたやすく納得してしまいがちなのだ。
対象との親密な関係
このダイレクト・シネマの代表者とされるのが、『グレイ・ガーデンズ』二部作を監督したアルバートとデヴィッドのメイズルス兄弟である(かつては「メイスルズ」表記が一般的だったが、『アイリス・アプフェル! 94歳のニューヨーカー』[2014]公開を機に本国での発音に近い「メイズルス」に改められた)。しかし、『グレイ・ガーデンズ』や『アイリス・アプフェル!』をご覧になった方ならば、「いったいこれのどこが観察?」と疑問に思うことだろう。グレイ・ガーデンズと呼ばれるぼろぼろに荒れはてた屋敷に二人きりで暮らす母娘には、キャメラやスタッフへの意識を隠す気配はまるでなく、それどころかひっきりなしにキャメラ目線で話しかけて、ときにはスタッフもまた明確に顔と名をそなえた存在として臆さず画面に登場する。ただでさえ想像力豊かな娘のリトル・イディ(といってももう若くはない)は、兄弟監督を秤にかけつつ彼らと自分とのルビッチ的な三角関係を夢見て歌い踊り、上半身だけ起こして普段はずっとベッドで過ごしている老母のビッグ・イディは、若いクルーのジェリー・トーリに興味津々のようだ(ファンにも愛されたこの美男がその後どうなったかは、ぜひ各自で検索して確かめてみていただきたい)。全篇が、まるでダイレクト・シネマの生真面目な定義を陽気に笑い飛ばしているかのようなのである。
アルバートにかんする好著をものしたジョー・マケルヘイニーなどは、こうした理由から『グレイ・ガーデンズ』に従来的なダイレクト・シネマからの離脱を見るのだが、実のところメイズルス兄弟のドキュメンタリー映画に対する姿勢は、これ以前からはるかに柔軟なものだった。たとえば、優れた映画作家にして批評家のジョナス・メカスから1966年にインタビューを受けたアルバートは、自分たち以外で評価しているダイレクト・シネマを訊かれ、なんとフェリーニの『81/2』(1963)とポール・ニューマン主演の『ハスラー』(1961)を挙げている。『ハスラー』という答えにはさすがのメカスも目を丸くしているのだが、アルバートのほうは現実の生活とそっくり同じその簡潔さに感じ入ったと当たり前のように説明する。
実はこのメカスによるインタビューは、『冷血』(1965年)刊行直後の作家トルーマン・カポーティの姿をメイズルスが捉えた『トルーマン・カポーティ訪問』(A Visit with Truman Capote、1966)を機に行なわれたものだった。実在の殺人犯を含む関係者への徹底した取材にもとづく『冷血』は、新機軸の「ノンフィクション小説」としてセンセーションを巻き起こしたが(リチャード・ブルックス監督で映画化もされている[1967])、カポーティ自身がジャーナリズムとフィクションの技術の綜合と定義したこの手法は、自分たちが映画でやっていることと非常に近いとメイズルスは述べる。『冷血』において取材者たるカポーティ自身の存在は消去されていたものの、メイズルスがいう親近性は単純な自己消去、作為の痕跡を消すという意味ではない。カポーティが対象とのあいだに築いたような関係、ある種の親密さが肝要だというのである。
そのような関係を結ぶためにメイズルスが開発したのが、撮影時にほとんど音を立てることのないキャメラだった。ずっとキャメラが見えていても音がしなければ人はそれを気にしない、部屋に家具があっても誰も気にしないのと同じだとアルバートはいう。『グレイ・ガーデンズ』の2人のイディがキャメラの存在を明瞭に意識しながらも、キャメラとスタッフとのあいだに親密で開けっぴろげな関係を結ぶことができたのは、このメイズルス特製のキャメラによるところが大きかった。
メイズルス対ワイズマン
すでに1963年の時点で、メイズルスがカナダにおけるシネマ・ヴェリテ(フランス語圏でのダイレクト・シネマの対応物)の代表作『ロンリー・ボーイ』(Lonely Boy、1962)のことを批判していたのは興味深い。これは当時人気が沸騰していた歌手ポール・アンカと彼に熱狂する女性ファンを記録した映画だが、メイズルスはこの映画には人間に対する尊厳が欠けていると述べたらしいのである(と『映画日記』のメカスが記している)。前後の文脈からして、この発言は撮ることを通しての変化を初めから拒むような、対象への撮り手の超然とした距離の置き方に対する反発を表明したもののように読める。だとすれば、教科書的なダイレクト・シネマ理解にいう「観察」は、むしろメイズルスが積極的に斥けようとしたものかもしれないのだ。
皮肉なことに、「観察」をキーワードとして理解されがちなワイズマンも、自分の撮るものが客観的か主観的かと問われれば主観的であるに決まっていると断言し、自作がダイレクト・シネマに分類されることには一貫して抵抗を示しているのだから、こうした分類にどれほどの意味があるのか、疑問に思われもしよう。こうした分類は、あくまでも茫漠たる世界の拡がりに最初にアプローチするための便宜上のものにすぎず、理解が進めば速やかに廃棄されるべきものなのだが、生来怠惰にできているわれわれは、既存の分類にしがみついて現実のほうをそれに無理やり合わせようとする。メイズルスにせよワイズマンにせよ、彼らが真に敵と定めているのがこの種の怠惰であることはいうまでもないだろう。
ワイズマンとの比較は、メイズルスについてさらに重要なことを教えてくれる。一貫してワイズマンに対して懐疑的なメイズルスは、とりわけ最初の長篇『チチカット・フォーリーズ』(1967)を厳しく批判している。精神を病んだ囚人たちの赤裸々な姿にキャメラを向けたこの映画で、ワイズマンは自分で護っているつもりの人々を実際には傷つけているというのである。人間的な感傷を排したワイズマン作品には、完成した映画のなかの自分を見て対象がショックを受けて傷つくような悪意がときに込められており、メイズルスにはそれが耐えがたいのだ。付言すれば、日本における礼賛一辺倒のワイズマン評価は、彼の映画のこうした側面をろくに見ようとしてこなかったと思う。
「映画の外」でのメイズルス支持
ワイズマンとは対照的に、対象と親密な関係を結ぶことを映画づくりの核とするメイズルスにとって、特権的な対象となるのはまさしく「人」である。カポーティやマーロン・ブランド、ビートルズやローリング・ストーンズといった有名人に傑作『セールスマン』(Salesman、1969)での聖書の訪問販売員、そして2人のイディから「94歳のニューヨーカー」へと至る決して自分を曲げることのなかった型破りな女たち。
メイズルスが日本で十分な知名度を得られぬまま今日まで来てしまったのは、彼らの映画がいわば「映画の外」において支持され、愛されてきたためかもしれない。ストーンズのファンで『ギミー・シェルター』(1970)を知らない者はいないだろうが、ストーンズを聴かない映画ファンは素通りしてきたことだろう。『アイリス・アプフェル!』は日本でも女性誌などで取りあげられ、女があこがれる女の映画として必ずしも映画ファンとは限らない多くの女性客を劇場に集めたが、はたして何人の男性シネフィル諸氏がこの映画の存在を気にかけていただろうか。『グレイ・ガーデンズ』も『アイリス・アプフェル!』に似て、早くからこの映画に熱狂したのはもっぱらファッションに敏感な女性とゲイであり、彼ら彼女らによって、この映画は通常のシネフィル的な文脈から距離を置いたところでカルト的な愛を注がれてきたのである。
アルバート自身、普段映画をほとんど見ないことをたびたび告白しているのだが、ダイレクト・シネマに分類されるつくり手の多くが、テレビからキャリアを始めていることも映画史的な文脈からこぼれ落ちる要因となった。歴史上決定的な意義を持つ一本は、ロバート・ドルーの肝煎りでつくられた『予備選挙』(Primary、1960)である。民主党の大統領候補指名をめぐるジョン・F・ケネディとヒューバート・ハンフリーの戦いに密着したこの作品には、ロバート・フラハティの『ルイジアナ物語』(1948)を撮影したことで知られるリチャード・リーコック、のちにボブ・ディランの『ドント・ルック・バック』(1967)を撮るドン・A・ペネベイカー、そしてメイズルスらが結集し、ダイレクト・シネマ興隆の礎を築いたのだ。1960年の大統領選挙というと、ケネディとニクソンのテレビ討論ばかりが注目されるが、それに先立ち、アメリカ政治と映像とが重要な接点を持っていたことを忘れてはならないだろう。
『予備選挙』でメイズルスが持ったJFKとの接点は、『グレイ・ガーデンズ』のはるかな淵源ともなるものだった。大統領夫人だったジャクリーンの妹リー・ラジウィルの映画をメイズルスは最初撮ろうとしたのだが、その過程で知った親類の母娘のほうに彼らの関心は移ってしまう。この母娘こそ、われらが2人のイディだったのだ。
聴くことを学ぶ
『グレイ・ガーデンズ』が40年以上もの長きにわたってファンに愛されてきた一方で、この映画に激しい嫌悪を示す者が後を絶たないのも事実である。マケルヘイニーが指摘するように、それがしばしば男性であることは徴候的であろう。たとえば、1976年2月22日付の『ニューヨーク・タイムズ』紙で『グレイ・ガーデンズ』に手厳しい批判を加えたウォルター・グッドマンは、どうしてかくも不潔な生活を送る女たちの不快な姿を見せつけられなくてはならないのかといった調子で憤慨し、メイズルスの標榜する「シネマ・ヴェリテ」(ダイレクト・シネマではなく)の欺瞞を攻撃している。メイズルスはすぐさまこれに応戦し、4月25日付の同紙に掲載された手紙において、グッドマンの記事のさまざまな誤りを正すとともに、たとえジャッキーとの血縁がなくとも2人のイディは彼女らだけで充分に魅力的であると擁護したのだった。
この映画が、なんといっても変人であることは否定しえない母娘を観客たちの好奇の視線に晒し、笑いものにしているとの批判は数知れない。キャンプ的な感性によって、彼女らの持つ過剰さが少なからぬ観客に嗤われてきたことは確かだろう。しかし、ほかならぬ女性たちによってこの映画が長く愛されてきたという事実、そして公開から30年余りの時を経て未使用のテイクをもとにした続篇『グレイ・ガーデンズ ふたりのイディ』までもがつくられたという事実は、それじたいでこうした批判に対する強力な反証となっているはずだ。むろんその最終的な判定は、観客一人ひとりに委ねられよう。
『グレイ・ガーデンズ』が一部の観客に困惑まじりの反発を招いてきたのは、メイズルスが映画に向かう姿勢の根幹に関わる問題であるに違いない。対象と親密な関係を結び、そのなかで対象を理解しようと努めるメイズルスの映画が、何をいおうとしているのかわからないという反応を呼び起こすのは、考えてみれば当然である。ここで映画は、何かをいうことじたいをもはややめているのだ。代わりに映画と観客は、同時録音を通じて対象の話を聴くことをようやく、ついに、学びはじめる。不可解なことに『セールスマン』以降のメイズルスに対して冷淡にふるまうようになるメカスは、しかし初期のメイズルスらが撮る作品の特徴を、「人間の声が映画の中にあらわれるようになった」と表現していたのだった。
すでにあたえられた文字数を3倍近くも超過してしまっているのだが、このように、メイズルス兄弟をきっかけにして話はどこまでも膨らんでしまう。これまで日本でほとんどできなかったたぐいの議論がいくらでも可能になってしまうのだから、やはり『グレイ・ガーデンズ』二部作上映は映画的な事件なのだ。劇映画以上にノンフィクションの領域においては、日本だけで知られていない作家、作品があまりにも多すぎる。見る手段が限られていた昔ならともかく、今は個人でも海外盤DVDの購入は容易であるうえに、少し検索すればたちまちウェブで動画が見つかるものもたくさんあるのだ。何でも外国に倣えばいいというものではないが、このような時代にただ日本(語)のなかだけで、あたえられたものだけを頼りにああでもないこうでもないと当て推量をするのは群盲象を撫でるがごとし、何よりとても勿体ないことではないか。この意味で、日本の観客から不当に奪われてきた作品をきちんとスクリーンにかけて体験としての共有までを企てるグッチーズ・フリースクールの一連の活動に、あらためてエールを送りたい。
参考文献
エリック・バーナウ『ドキュメンタリー映画史』安原和見訳、筑摩書房、2015年[原著1974年]。
リチャード・メラン・バーサム『ノンフィクション映像史』山谷哲夫・中野達司訳、創樹社、1984年[原著1973年]。
Jacobs, Lewis, ed. The Documentary Tradition. 2nd Ed. New York: W. W. Norton, 1979.
McElhaney, Joe. Albert Maysles. Urbana: University of Illinois Press, 2009.
ジョナス・メカス『メカスの映画日記――ニュー・アメリカン・シネマの起源 1959-1971』改訂版、飯村昭子訳、フィルムアート社、1993年[原著1972年]。
予告編
【イベント詳細】
日時:2018年7月29日(日)
会場:渋谷TOEI シアター②189席(9F)
17:00 開場
17:30『グレイ・ガーデンズ』開映
(入れ替え&開場)
19:30『グレイ・ガーデンズ ふたりのイディ』開映
21:05 コラムニスト・山崎まどかさんと詩人・文月悠光さんの対談
イベント終了は21:35を予定しております。
【チケット】
渋谷TOEI 劇場1Fチケット窓口にて販売致します。入れ替え制。
当日券:各作品1,800円
前売券:各作品1,500円
前売券は7月14日土曜日より上映前日まで、渋谷TOEI 劇場1Fチケット窓口で販売。
※チケット販売時間につきましては、劇場HPをご覧ください
★渋谷TOEIホームページ
作品・イベント概要はこちら。ゲスト詳細&著名人からのコメントはこちら
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