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【特別寄稿】山内マリコさんによる『グレイ・ガーデンズ』関連3作書き下ろし作品評!

作家の山内マリコさんが、今回上映する3作『グレイ・ガーデンズ』『グレイ・ガーデンズ ふたりのイディ』『あの夏』について、書き下ろしの作品評を執筆くださりました。ぜひご一読ください。

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彼女たちは何者か~『グレイ・ガーデンズ』と『ふたりのイディ』~

 

打ち捨てられた大邸宅で、猫とアライグマにかこまれて生きる、世捨て人のような母娘。その奇妙な暮らしぶりを収めたメイズルス兄弟のドキュメンタリー『グレイ・ガーデンズ』を観ている間、わたしは絶え間なく戸惑う。

ジャクリーン・ケネディの親戚という極め付きの名門ブーヴィエ家に生まれた母と娘。離婚や家の没落があり、ふたりは自活していかなければならなくなったが、その暮らしに“生活”らしいものはない。掃除もしないし洗濯もしないし炊事もしない。生活の概念自体ない。かくして豪邸は衛生局からにらまれるゴミ屋敷と化し、彼女たちはセルフ・ネグレクトに近い、破綻した暮らしを送っていた。

なぜこうなってしまったのか?

ドキュメンタリーの多くは編集や音楽やナレーションによって、「こう感じてください」と観客を一つの方向へ誘導するものだけど、メイズルス兄弟はまったくそれをしない。目の前で繰り広げられた光景に、自分たちのフィルターを極力とおさない。だからわたしは、同じイディという名を持つこの母娘を、「自分らしく堂々と生きている魅力的な人たち」と思えばいいのか、「おかしくなってしまったヤバい人たち」と思えばいいのかわからない。両方の気持ちが本当の気持ちで、行ったり来たりする。

ドリュー・バリモアとジェシカ・ラングが母娘を演じたドラマ版『グレイ・ガーデンズ』を観ると、ある時期までのふたりはとても美しく、輝いている。母のビッグ・イディは、ひたすら歌っているのが好きという享楽的な性格だ。社交界デビューする娘に、「自由にさせてくれる男性を探すのよ」と結婚のアドバイスをする。父は娘の神経の細さを見抜いていて、「しっかりした男と婚約させてやれ」と言う。「とはいえ、君らに見分けられるかな」

リトル・イディは結婚を拒み、ニューヨークに出て女優を目指すも、不倫という罠につかまり実家に連れ戻されてしまう。父は、当然いる愛人の元へ去り、ほどなく他界。そうして母娘はふたりきり、財産を食い潰し、互いを呪縛しながら、生活ともいえない生活を20年近く送ることになるのだった。

ふと思い出したのが、女優の朝丘雪路が、昔テレビで語っていたエピソード。日本画家、伊東深水の娘として溺愛されて育った彼女と結婚した津川雅彦が、ある日、引き出しに大量の小銭を発見する。訊けば、彼女は結婚するまで自分でお金を払って買い物したことがなく、いつも一万円札で払い、お釣りで戻ってくる千円札や硬貨に困って、引き出しにしまい込んでいたという。お金の概念がなかったのだ。笑い話として披露されていたが、津川雅彦と再婚したとき、朝丘雪路が38歳だったことを考えると、洒落にならない。「お嬢様育ち」というふわふわした言葉では片付けられない、人権問題に抵触するほどの危うさを感じてしまう。

とびきり浮世離れすることだけに価値を置かれているかのような、麗しき令嬢たち。たぶん一昔前のお嬢様は、想像を絶するレベルで、生きていくためのあらゆる実践的スキルから、遠ざけられて育ったのだろう。現実から切り離され、経済的自立は言わずもがな、生活者として自立するヒントすら与えられない。現実世界をサバイブすることにまつわる、根本的ななにかを与えられない。彼女たちは「経済力のある男性」とセットではじめて成立する、あらかじめ“片端”として育てらた脆弱な存在なのだ。結婚によって父親から夫にパスされることを前提とし、一人では立てないように育てられているのだ。だから、頼れる男性がいなくなったとたん生活が崩壊してしまったこの母娘が「おかしい」のではない。お嬢様に限らず女性を自立から遠ざけるのは、個人の問題ではなく、社会構造が抱える問題なのだから。

『グレイ・ガーデンズ』が伝説的なカルト作となった理由の一つに、娘のリトル・イディがその後、ファッション・アイコン化したことが挙げられる。全身脱毛症を隠すために編み出したといわれる彼女のスカーフ使いはたしかに素敵だし、手持ちの服を独創的に着こなすセンスがあり、特有のゴージャスな世界観が完全にできあがっている。母ビッグ・イディも、いつもおしゃれしている。もう何年もお風呂に入っていないと言うわりに、常にカラフルな、品のいいコーディネートでベッドに寝そべっている。娘に対しての、抑圧的で、恐ろしく意地悪な態度を隠しもしないので、別にカメラを意識して、気張って服を選んでいるわけでもないのだろうに。

部屋は荒れ放題。しかし不思議と、ふたりは小綺麗だ。それは美意識が高いとかではなく、毎日きちんと美しく着飾っておくことに、重きをおいて育てられたからだろう。彼女たちは、「条件のいい男性」に気に入られなくてはいけない。「選ばれる女におなりなさい」というわけだ。男にとって魅力的な女であるよう常に求められ、センスを磨いてきたスペシャリストなのだろう。見る影もなく落ちぶれても、そんな“育ちの良さ”だけは健在だ。

隠遁状態だった彼女たちが“発見”され、メイズルス兄弟がドキュメンタリー映画の撮影を申し出てくると、ようやくわたしたちにスポットライトが当たるわ! と、母娘は無邪気にスター願望を爆発させる。撮影クルーを大歓迎し、カメラの前でいきいきと自分を晒す。そんなふたりの、あまりにむきだしの姿に、わたしは戸惑う。でも、こりずに何度でも観たいと思ってしまう。得体のしれない魅力が充満している、文字どおり畢生の一作。

ひとつ言えるのは、ふたりのイディが持つ危うさは、自分と無関係ではないということ。「女性」として育てられ、生きてきて、それがいかに危ういものだったかは、よく知ってる。わたしは手痛い経験をなんとかくぐり抜け、小賢しくバランスをとって、社会が求める“まともな女”を装い、演じているにすぎない。女性が自分の足で立つことの根本的な難しさを思えば、この先、イディ母娘のようにならない自信も保証もない。イディ母娘と似たような境遇で生きている女性は、案外たくさんいるのではないか。男社会のセーフティネットからこぼれ落ち、周縁で生きている無数の女性たちのことを思う。

ともあれ、このふたりに同情はまったく無用だ。リトル・イディはカメラに向かって豪快に高笑いし、のびのび歌い、はつらつと躍る。圧倒的な生の喜びに満ちている。少なくとも彼女にとっては、この映画こそ、「めでたしめでたし」なのだ。

写真家ピーター・ビアードの視点~『あの夏』~

 

しかしそんなひとりよがりな考察は、前日譚『あの夏』によって、優雅に吹き飛ばされたのだった。本作は写真家ピーター・ビアードが、1972年に過ごした夏の記憶。彼が捉えたのは、ジャッキーの妹、リー・ラジヴィルに導かれて出会った素晴らしき人々――時間の止まった家にひっそりと暮らす、娘リトル・イディと母ビッグ・イディ――との、奇跡のような邂逅だ。

ピーター・ビアードは、猫と会話する彼女たちの中に「偉大な内なる詩」を見出し、「いつだって素敵」とまじりけなしの称賛を送る。彼の目に映るのはゴミ屋敷ではなく、わたしが抱いたフェミニズム的感傷でもなく、「空に浮かぶ飛行船や宇宙船」のような、ただただ圧倒的な、素晴らしいものだ。そこには揶揄も、嘲笑もない。美と対面し、圧倒された人間の、敬意だけがある。

ピーター・ビアードは、当時最高にヒップな、カッコいい存在だったという。一瞬ちらりと映る本人は、腰が砕けそうにセクシーで、なるほどこれが伝説的プレイボーイかという印象だ。しかし、そのルックスやセレブイメージからこちらが勝手に邪推するような、人間的な冷たさは一切ない。リー・ラジヴィルにしてもそうだ。彼女は最先端のファッションに身を包み、草むらをかき分けて、床が抜けそうなぼろ屋敷にやって来る。逸脱者となった親戚を恥じることなく、ましてや世間から隠しておこうと画策することもない。ひたすら親切で、優しさにあふれ、心配顔で尽くす。

この時代のセレブ・コミュニティというと、ドラッグまみれのダーティなイメージを持っていたけれど、まるで違った。映っているのは、ハイソサエティの人々のアットホームさ、思いがけない温かさだ。流木に腰掛けるアンディ・ウォーホルさえ、ほっとくつろいだ表情をしていて、感じのいい人物に見える。純粋な憩いを求めて、まだ人の少ない隠れ里のような別荘地に集まってくるセレブリティたち。そこには、1920年代の南仏リヴィエラにピカソたちがぞろぞろやって来た夏と同じ匂いがある。

そしてなにより、現代のわたしたちにとってもっとも身近な、「ウケるw」みたいな醜い感受性が微塵もない。「誰もまねできない、夢の世界の住人だ、それでいいんだ」と、ふたりのイディを全肯定して回想するピーター・ビアード。その視点こそ、真に“尊い”と呼ぶに相応しいものだろう。

ああ、と思った。ピーター・ビアードのこの、ふたりのイディを前にしたときの、畏敬に満ちた感覚は、あれだ。昔の人が、“まれびと”に対して抱いたとされるものだ。自分たちとは少し違う“異人”を、一種の神様として歓迎し、敬う感覚。

そういう感受性は、すっかり失われてしまった。障害を持つ人、肌の色の異なる人、エキセントリックな人を、神様的な存在として、美しいものとして崇める感受性。その感性は近代化のなかで歪み、マイノリティとして排除するようになっていった。畏敬の念ではなく、軽侮するようになっていった。

かつて日本にあったらしい、農耕民族特有の感性を、なぜかピーター・ビアードに感じる。彼が作る日記は、めちゃくちゃおしゃれでカッコいいが、どこかアウトサイダー・アートに通じるものがある。

異質なものを排除する感受性が主流派となって久しい今の世で、ピーター・ビアードがふたりのイディを回想する言葉は、ただただ美しく響く。あの日そこに、侵しがたい崇高な神秘があったのだ。ドキドキしながら草むらの奥へと進み、とてつもなく美しいものに出会ったのだ。彼はそっと、手でも合わせるように、カメラを回した。1972年の夏、世界はまだ、こんなにも澄んでいた。

参考:

『イノセント・ガールズ 20人の最低で最高の人生』(アスペクト)山崎まどか・著

https://precious.jp/articles/-/6386

https://hypebeast.com/jp/2020/4/peter-beard-wildlife-photographer-dead-at-82

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2/28(日)の12時からはファションエディターの大平かりんさんと『グレイ・ガーデンズ』インスタライブもありますイディ母娘の着こなしの魅力的なポイントなど具体的に色々と楽しいお話をお聞きする予定です。

大平かりんさん→
instagram.com/ko365d/
グッチーズ→instagram.com/gucchis.free.s
どちらのインスタからでもぜひ。

《3作品の視聴チケットは2月28日(日)23:59まで発売中》

『グレイ・ガーデンズ』

『グレイ・ガーデンズ ふたりのイディ』

『あの夏』

※チケット購入後48時間の視聴が可能です。

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Killer of Sheep

スラム街に暮らす黒人たちの暮らしを鮮やかに描き、望まれながらも長らく劇場公開されなかった、黒人監督チャールズ・バーネットによる幻の傑作。 1970年代中頃、ロサンゼルスにあるワッツ地区。黒人たちが住むそのスラム街で、スタンは妻と息子、娘の4人で暮らしている。スタンは羊などの屠処理の仕事をし、一家は裕福ではなくても、それほど貧しくはない生活を送っていた。しかし仕事に励むなかで、日に日にスタンの精神は暗く落ち込み、眠れない日を送るなかで妻への愛情を表すこともしなくなっていた。 子供たちが無邪気に遊びまわっている街は、一方で物騒な犯罪が起き、スタンの周りの知人友人にも小さなトラブルは絶えない。 そんななか、家の車が故障したため知人からエンジンを買おうと出掛けるスタン。しかしエンジンを手に入れたスタンは、その直後思わぬ事態に見舞われるのであった……。

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